、新派に非ざる、「新しき日本劇」なのであつて、その意図を正しいとすれば、結果の如何に拘はらず、「新劇」とは畢竟、「過渡期に於ける演劇」に過ぎないと断定し得るのである。
 発生期ともいへ、過渡期ともいへる我が「新劇」の最も大なる悩みは、優れた「演劇的抱負」を実現すべき、「演劇的手段」を欠いてゐることである。「語り」得るのみで、「見せる」ことができないのである。
 西洋劇の魅力は、新文化の魅力であり、これが移入された当時にあつては、全く、その「手段」の如きは問ふところでなかつたのである。西洋近代劇乃至それ以後の様々な舞台様式の紹介も亦、同様である。「何かしら」が目新らしく、「何か知ら」が心を酔はせた。今は、さういふ「何か知ら」がなくなつて、「抱負」は、ただ「抱負」としてでは通用しなくなつた。見物の目は、肥えて来た。「ほんたうの芝居」を見せろと要求しだしたのである。
「新劇」の方でも、今に見せる今に見せると云つてゐるだけで、「何を」見せたらいいのか見当もついてゐない。そしてやつと、近頃になつて、めいめい、「自分の仕事」がわかつて来た。今まで何をして来たかといふことになつた。
 そして、急に「
前へ 次へ
全15ページ中3ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
岸田 国士 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング