新劇の自活
岸田國士

 新劇といふ言葉も、可なり古くなつた。そして、新劇といへば、もう世間で、あああれかと思ふやうになつた。
 ところが、われわれの目指してゐるのは、そんなものではない筈である。少くとも、今日、情実を離れて新劇を云々する者は、現在の新劇に幾分愛想をつかし、なんとかならぬものだらうかといふ嘆声をひとしく漏らしてゐる。
 ある者は、新劇が面白くないと云ふ。面白いとか面白くないとかいふのは、その人々によつて標準が違ふから、これはなんとも云へぬが、兎に角、その理由をいろいろ挙げて、打開策を講じるといふ傾向が見えはじめた。
 新劇の大衆化といふ方法もその一つだ。何が大衆化かといふと、結局、頭の悪い誤魔化しをやることだ。それでは、肝腎の新劇がどつかへ行つてしまふことになる。新劇といふのは、別に六かしい劇といふことではない。だから、落ちついて考へれば、そんなに大衆化を計らなくても、うまくさへやれば、誰にでもわかり、誰にでも興味のもてる芝居なのである。
 そこで、戯曲の方面でも、舞台の方面でも、演劇の本質といふ問題が、真面目に考へられはじめた。戯曲では、雑誌「劇作」による新人達が「企
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