する一種の文学的ヴァガボンドを対手として、その一顰一笑に神経を尖らしてゐたことが間違ひである。
 次に、この現象から出発し、西洋劇の紹介的演出[#「紹介的演出」に白丸傍点]を以て、新劇運動の基礎工事なりとしたかのオサナイズムの不幸な帰結をここに見得るのだ。
 さて、私の云ふ新劇の「殻」とは、抑も何を指すか。
 第一に、「紹介」といふ仕事がもつ、総ての一時性、誇示性、非独創性、そして、「あとはお察しに委せる」といふ省略性、即ちこれである。
 第二に、「翻訳」なるものの免れ難き「不完全さ」――殊に、「概ね正確」である以上を求められない事実、語学的翻訳と文学的翻訳との曖昧な日和見主義、即ちこれである。
 以上の二点が舞台上の隅々にその根をおろして、新劇の未来を鎖したといふことは、今日もはや論議の余地はないのである。
 そこで、俳優の演技についてこれを考へれば、戯曲中の一人物に扮する場合、その役を活かす代りに、その役を「紹介」するを以て足れりとした。その人物の「描かれてない生活」は、皆目、舞台の上に現はれてゐないのである。従つて、一つの役を裏附ける俳優の人間的魅力が、全然、新劇の舞台から駆逐さ
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