出て来る。
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新井 やつぱり行つてみないと、どうしても気が済まない。なんだか、落ちつかなくつて……。
とね (追ひ縋るやうに)だつて、後は、あたし一人よ。こんなところで、ほかにだあれもゐなくつちや、あたし……(新井の服の袖を捉へ)ねえ、新井さん……あたし、淋しいのよ……。後生だから、今夜だけ、……あたしの側にゐて……。ねえ、ほんとに、あたし……怖いんだつたら……。
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彼女は、新井の腕に取り縋つたまゝ、頼むよりも、寧ろ、制する形で、テラスの端まで来る。
新井は、それを振り払ふ力がないやうに見える。
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四ノ二
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火口壁を形づくる山の頂上。――払暁前一つ時。
左下りに溶岩と焦石の急斜面。右手は、断崖になつた噴火口の一部、濛々たる噴煙。
山の嶺を掠めて、遥かに、地平線。
左手から、二葉が、登山の服装で、斜面を登つて来る。
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二葉 (後ろを振り返り)なにしてらつしやるの、お父さん……。もう、そこが天辺《てつぺん》よ……。
州太の声 ちよつと待て……。そのへんで少し休まう。
二葉 だつて、もう一と息よ。噴火口が見えてるわ。
州太 (追ひついて)だから、さう急ぐことはないさ。日の出には、まだしばらく間がある。この辺なら、煙が来なくつてよからう。(腰をおろす)
二葉 あたしたち、随分早く着いたのね。さつきの人達、まだあんなところにゐるわ。
州太 喉、渇かないかい。(水筒の水を飲む)
二葉 早く噴火口のなかゞ見たいわ。一人で行つちやいけない?
州太 お待ち。今一緒に行くから……。
二葉 (これも腰をおろし)この山、何時破裂するか知れないわね、かうして、……。
州太 東京にゐたつて、何時地震で潰されるか知れない、それとおんなじさ。お前たちは、まだ命が惜しいだらうな。
二葉 命が惜しいなんて、そんなこと、まだちやんと考へたことないわ。だつて、死にさうになつたことなんかないんですもの、一度も……。
州太 年を取ると、自分の身に迫つた危険といふものが、はつきり見える。その代りに、また、さういふ自分の眼を疑ひたくなるものだ。わしはこれまで、病気をしたことは滅多にないが、なにか面倒な事件が起ると、すぐに、自分の命といふことを考へる。しかし、わしにも、お前といふ娘がゐなかつたら、もう、とつくの昔……さういふ事件のために、命を取られてゐたのだ。昨日の、あの人夫どもの事件にしてもさうだ。あの時こそ、わしは、どうにでもなれと思つた。お前が貯金を投げ出してくれなかつたら、わしはあいつらの面へ、インキ壺を叩きつけてやるところだつた。
二葉 そんなことつてないわ。今、賃金の問題は何処でもやかましいんだから……。
州太 しかし、お前があゝいふことをしなくつても、あの時は、我慢をしたかも知れんよ。お前のところへ大事なお客さんが来てゐる時だ。
二葉 あたしたち、話がすんで、どつちも黙つてゐたのよ。さうしたら、表の方で急に、大きな声が聞えるでせう。あたし、そうつとのぞきに行つてみたの。すると、あゝいふわけなんですもの。びつくりしたわ。だつて、お父さんのお話と、丸で様子が違ふし……。
州太 わしも、実際、お前には面目ない。満更、嘘をついてゐたわけでもないのだが、事実よりも空想の方が話しいゝ場合もある。お前だつてさうだらう。例へば、あの青木といふ男が、昨日、わざわざやつて来た理由は、わしに黙つてるぢやないか。
二葉 ……。
州太 しかし、さういふことは、何れわかることだ。はつきり云つてしまはうぢやないか。実は、あのおとねが、お前たちの話を、すつかり立ち聴きしてしまつたのだ。
二葉 ……。
州太 それで、どういふんだ、あの男は……。
二葉 駅へ行く途中、さういふお話、なすつたんでせう。
州太 それも、聞くには聞いた。お前は、わしの耳に当分入れないといふ約束をしたさうだが、あの男は、すつかり喋つたよ。
二葉 そんなら、もう、いゝぢやないの。
州太 どうしてまた、以前のことを打ち明けて置かなかつたんだ。今更それを云つてもなんにもならんが……。
二葉 云はう云はうと思つてるうちに、云へなくなつちやつたの。だつて、あんなこと、云へば赦してくれるにきまつてると思つてたし、それくらゐなら、急いで云ふ必要なんかないんですもの。
州太 何処からそんなことがわかつたんだ。
二葉 調べたらわかつたつていふのよ。下宿のお神さんでせう。今度、あそこを引払ふ時でも、それや機嫌が悪いの。さういふお神さんよ。一度か、二度、遊びに来たことがあるのを、大袈裟に云つたんだわ、きつと……。
州太 お前も運の悪い女だ。
二葉 運が悪いんぢやないわ。あたしが悪るかつたのよ。でも、可笑しいもんね。一番自分に近い人間に、一番ほんとのことが云へないなんて……。
州太 ほんたうのことゝいふのは、一番聞きづらいことだからさ。だが、これから、わしは、お前になんでも本当のことを云ふからね。
二葉 あたしもさうするわ。
州太 あゝ、さうしてくれ。さうしてくれゝば、わしはもう、なんの苦労もない。
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長い間。
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州太 あの音を聴いて御覧……。
二葉 ……。
州太 なあ、おい、二葉……。
二葉 (慄然と、跳び退く様な身構へで)いやよ、そんな声して……、気味が悪いから……。
州太 なるほど、お前には、もうわしの云はうとしてることがわかると見える……。
二葉 お父さんつたら……。
州太 かういふ云ひ方をしては不味《まづ》いな。しかし、今日、家《うち》を出る時、お前はどうしてあんなにはしやいでゐたんだ。わしも、出来るだけ平静を装つてゐた。だが、お前にも、わしにも、あゝいふ事件が起つた後で、この思ひ立ちは少し不自然すぎた。おとねが、よく黙つてわしたちを出したもんだ。なあ、お前は、さう思はんか。
二葉 人からみれば不自然でも、あたしたちには、それが自然ならいゝぢやないの。悲しみや、不愉快を紛らす方法は、人によつて違ふんだわ。もう、そんな話、よしませうよ。折角、あたし、忘れてたのに……。
州太 わしも、早く忘れたい。出来ることなら、永久に忘れてしまひたい。今更、愚痴も可笑しいが、わしは、自分の最後の事業が、脆くも失敗に帰したことを、お前にだけは隠しておきたかつた。隠しおほすために、あらゆる苦心をしたんだ。それが、あさましい今日の結果だ。わしは、もう起ち上る勇気がない。いや、勇気はあつても、力がないのだ。これは、五十年間生きて来た男の、自分を識りぬいた揚句の声だ。誰が何んと云はうと、わしの精根は尽き果てゝゐる。神が若し、これ以上この男に寿命を与へるなら、その神こそ、無慈悲な悪戯者だ……。
二葉 いやだわ、そんなこと云つちや……。(間)さうよ、お父さんが、あたしの眼を、明るい方にばかり向けさせようとして下すつた、そのお心持は、むろん、よくわかつてゝよ。(間)それから、この先々、今迄のやうな生活には、もう堪へられないつておつしやることも、なるほど、さうかも知れないつて気がしますわ。しかし、なんにもしないで、生きてだけいらつしやることが、どうしておいやなの? お父さんさへ我慢して下されば、あたしが働いて、お父さんお一人ぐらゐ、楽に養つてあげられるわ。それも、あたしたちに取つて、結構面白い生活だと思ふわ。
州太 わしは、お前に慰めて貰ふ必要はないよ。また、さういふ資格もないわけだ、だつて、お前にも、わし以上の……わしとはまた違つた、なんといふか、心の苦しみがあるだらう。さつきお前は、今それを忘れてゐるなんて云つたが、そんなことで、満足なのか。日が昇ると、山を降りなけれやならんぞ。悲しみは、この下で、あの家で、空から遠いあの地べたの到るところで、お前を待ち受けてゐるんだぞ。お前は、今日、あの青木といふ男に、癒りかゝつてゐる心の古傷を、またあばかれたと云つたね。その傷口が、今度癒りかける時分に、何れまた、誰かゞあばかずには置かないのだ。さうして、次ぎ次ぎと、お前の生涯は、苦しみの連続だ。わしが保証しておくよ。
二葉 さう云へば、あたしが死にたくなると思つてらつしやるんでせう。大変な間違ひよ、お父さん……。(無理に笑ふ)をかしいわ。あたし……(また笑ふ。が、今度は、その笑ひが自然と泣き声に変つて行く)やつと、わかつたわ。お父さんは、あたしを……あたしを……此処まで……。
州太 さうだ。お前を一緒に連れて行きたいんだ。わしは、お前を置いて、一人で死にたくないんだ。こいつは、多分、我儘な親の願ひかも知れん。しかし、また、同時にお前を不幸の数々から救ふ唯一つの手段に遠ひない。なるほど、お前にはまだ、若い時代の希望とか夢とかいふものが、少しは残つてゐて、たゞそれだけが、お前の決心を鈍らせるだらう。思ひ出して御覧、お前がまだ小さい時分、よくお菓子をねだつた、それをわしは、いちいち、そんならと云つて食べさせたか。ところが、今になつて、お前は、このわしが無理だつたと思ふか?
二葉 いゝえ、いゝえ、そんなことゝは比較にならないわ。お父さんに……今のお父さんに、そんな権利はないわ。いやよ、あたし、いやよ、まだ死ぬなんて……。
州太 さうか。そんなら、わし一人を死なせるつもりだね。お前は、黙つてそれを見てゐる気か。
二葉 あたしが死なゝいつて云へば、お父さんだつて死にたくないとお思ひになるわよ。ねえ、さうでせう(父に取り縋り)それがほんとだわ。あたしをほうつて、そんなことなされない筈よ。あたしのことが心配でせう。(急き込んで)ねえ、心配だつて云つて頂戴……。あたし、まだ、お父さんに、いろんなことで力になつていたゞきたいのよ。ほんとよ。さういふ力なら、お父さんにあつてよ。あるどころぢやないわ。お父さんにしかない力よ、それは……。それも、大きな、大きな、強い強い力よ。
州太 駄目だよ、お前がなんと云つたつて……。仕方がない……。お前がいやなら、わしは、一人で、飛び込む……。
二葉 (はじめて気がついたやうに、恐怖に満ちた眼で噴火口の方をみる)
州太 お前を誘つたのは、わしがわるかつた。お前には、まだ、お父さんの苦しみも、よくわかるまい、それだけに、まだ、世の中といふものが、わかつてゐないのだ。一人の人間の命を、わしは決して軽く見てゐるわけではなかつた。殊に、お前にとつて尊いものを、わしが奪ふといふ法はない。わしは、わし自身の選んだ道を取ることにしよう。そこで、くれぐれもお前に云つておくが、山を降りたら、まつすぐに東京へ帰りなさい。決して、あのおとねのゐる家へ足を向けるんぢやないよ。あの女は、お前を、どんな方向へ引つ張つて行くかもしれない。あの女の言ふことは、取るにも足らないほど馬鹿げたことだ。しかし、あの女のすることは恐ろしいよ。恐ろしいといふ意味は、相手にきつと、心の動揺、つまり、何等かの影響を与へるといふ意味だ。あの女の何処かに、見どころがあるとすれば、わしにだけさう見えるのかもしれんが、そいつはつまり、不純なものゝ美しさだ。わしは、どういふわけか、さういふところにだけ心を惹かれたのだ。だが、お前は、お前こそ少くとも、純潔を保つてゐて貰ひたい。お前の過去は、二つ傷をもつてはゐるが、決して、それは汚れたものではない。その点、わしは、お前を信じ、また、お前のために矜りを感じてゐる。初めの男は、たゞ、お前を裏切つたのだ。二番目の男には、これは、お前といふ女がわからなかつた。何れも、お前に罪はなく、お前は、お前の心のやうに清浄無垢だ。
二葉 …………。
州太 たゞ、わしが、どうにも気がゝりなのは、お前が、その総てを、どんな男の手に委ねるかといふことだ。その男が
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