、果して、お前の総てを、わしと同じ眼で見てくれるかといふことだ。
二葉 (訝しげに父の顔を見守る)
州太 こんなことを云つてゐても仕方がない。お前は、お父さんにかまはず、これから、来た道を下へ降りるといゝ。迷ふ気づかひはない。それとも、やつぱり、日の出を見てからにするか。もう、そろそろ、夜が明けて来た。
二葉 かうして、お父さんのお話を聴いてゐると、今、眼の前に起らうとしてゐることが、なんだか、自分とは関係のないことみたいな気がしますわ。そんな筈はないのに、どうしてゞせう。やつぱり、そんなことは起らないにきまつてるからだわ。さうよ。さ、もう、あたし、なんにも見なくつていゝから、すぐに引つ返しませう(父の腕を取り、無理に起たせようとする)ようつたら……。こんなところに、何時までもゐちやいけないわ。
州太 (やつと起ち上り)さ、お前は、此処にゐない方がいゝ。それぢや、二葉、気をつけて帰りなさいよ。(噴火口の方に近づいて行く)
二葉 (驚いて)お父さん……何処へいらつしやるの。(追ひ縋り、その腕を捉へて)いけません。止して、ね、止して……後生だから止して……。あゝ、誰か来て頂戴……。
州太 二葉……。(哀願するやうに)どうか、お父さんのすることを赦してくれ。こんな意気地のない父親は、天下に二人とはゐまい。だが、いくら蔑まれても、憎まれても、わしは、どうすることもできんのだ。(殆ど狂はんばかりに)あゝ、誰か、今、わしを殺してくれるものはないか……。
二葉 お父さん……。そんなに生きてゐるのが苦しいの? あたしが……。あたしがゐるつていふことが、なんにもならないほど苦しいの? それぢや、いゝわ、あたし、一緒に死んであげるわ……。
州太 え? ほんとか?
二葉 ほんとよ。えゝ。あたし、決心してよ。どうしたつていふんでせう……。自分でもわからないの。死ぬなんて、いやだと思つてたのが可笑しいくらゐだわ。もう、なんともないわ。たゞ、怖いだけよ。怖いわ、死ぬの……。でも、お父さんと一緒なら、怖くないか知ら……。あそこまで行つてみませうよ。(歩き出す)
州太 怖くはない、怖いもんか。さ、しつかりお父さんにつかまつておいで……。あの崖の端まで行つたら眼をつぶりなさい。
二葉 あたし、今から眼をつぶつてゝよ。あら、よく歩けないわ。(間)まだなかなかね……。
州太 まだなかなかだ……。ちつとも苦しくはないよ。煙にさつと包まれたら、それでもういゝんだ。からだが、ふはりと、宙に浮くだけだ……。
二葉 もうぢきでせう……。あゝ、あたし、いゝ気持だわ……なんだか、楽しみだわ……どんなところへ行くんでせう……。
州太 ……。
二葉 ねえ、返事をして頂戴よ。黙つてちやいやだわ……一人ぽつちみたいで……。
州太 (声が出ない。もう断崖の頂に来てゐる)
二葉 どうしたの、え、お父さん……どうして停つてるの……。震へちや駄目よ……。
州太 顫えてなんかゐないさ。わしも歩きにくいだけだ。
二葉 硫黄の臭ひね。息がつまりさうだわ。
州太 (決然と)さ、いゝか……。そらツ……(グイと、娘の背を抱へた腕に力をいれ、共々、前に躍り出ようとする)
二葉 (この瞬間、ぱつと眼を見開くと同時に、狂ほしく)ちよつと、待つて……(かう叫んで、側らの岩にしがみつく)
州太 (娘の手を握つたまゝ、励ますやうに)どうした!
[#ここから5字下げ]
長い、息づまるやうな沈黙。
やがて二葉は、岩から、ぢりぢりとからだを離し、こんどは、父の手を振り放すやうに、自分で、噴火口めがけて飛び込まうとする。
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
州太 (無意識に彼女の肩に手をかけ、鋭く)おい、待てツ!
[#ここから5字下げ]
が、二葉の足は、もう地上を離れてゐる。州太は、彼女の肩に手をかけたまゝこれも、引摺られるやうに崖へ姿を消す。
地平線上の空は、次第に明色を帯び、やがて、高山より見下ろす独特の曙光を反射しつゝ、山頂は、今や、黄褐色の地肌を生々しく現しはじめる。
その時、崖の一端に突き出た熔岩の鉛色の蔭から、二葉の姿が――それは恰も、「自然の意志」が彼女を起らせたかのやうに――ほのぼのと浮び上つて来る。
彼女は、半ば眠つてゐるものゝ如く、ぐつたりと、からだを岩にもたせかけるが、そこで、極めて徐々に両眼を見開く。
それと同時に、遥か向うで、今頂上に辿りつかうとする登山者の一隊が、所謂「御来光」の壮観を前に、高々と、何やらの歌を合唱しはじめる。
[#ここで字下げ終わり]
底本:「岸田國士全集5」岩波書店
1991(平成3)年1月9日発行
底本の親本:「浅間山」白水社
1932(昭和7)年4月20日発行
初出:「改造 第十三巻第七号」
1931(昭和6)年7月1日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:kompass
校正:門田裕志
2008年3月19日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
前へ 終わり
全8ページ中8ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
岸田 国士 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング