面倒な気持はない。こんなことを、お前が知つたつてなんにもならんが、世間には、さういふ例がいくらもある。わしも、この年で、しかも、お前の眼の前で、こんな生活を続けたくはないんだが、今更どうも、致し方がない。お前に不愉快な思ひをさせてすまんが、こゝはひとつ、大目にみてくれ。
二葉 あたしに、そんな気兼ねをなさらなくつていゝことよ。人間は、何時だつて自分に克てないことがありますわ。
州太 それがわかつてくれゝばありがたい。だから、お前は、飽くまでもこの家の女主人だ。誰にでも遠慮なく振舞ふがいゝ。
二葉 あの方にも、さう云つておあげになるといゝわ。あたしと、あの方と、どんな風に遠慮なく振舞ひ合ふか、お父さん、見てらつしやいね。女同志は、世間でいふほどうるさいもんぢやなくつてよ。
州太 お前にはかなはんよ。まあ、よろしくやつてくれ。もうぼつぼつ飯の支度ができてる時分だ。あつちへ行かないかい。(歩き出す)
二葉 もう少しかうしてたいの、あたし……。浅間がいゝ色ね、今朝は……。
州太 そのうちに、一度、登つてみるか。
二葉 賛成ね。その用意に、靴も持つて来てるのよ。
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州太の姿が消える。
二葉は、そのまゝそこに腰をおろしてしまふ。今迄の晴れやかな瞳に、なんとなく憂鬱な色が浮ぶ。
鶯が啼いてゐる。
葱を入れた笊を持つて、とねが降りて来る。
[#ここで字下げ終わり]
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二葉 早くお起ししてすみません。
とね とんでもない。今朝は、どうしてだか寝坊をしちまつて……。何時も、今頃は、とつくに朝御飯がすんでるんですよ。
二葉 (皮肉でなく)それぢや、お寝坊をさしてすみません。
とね (笑ひながら)あらまあ、こんだ、どう云つたらいゝんでせう。こゝは、水が不自由でしてね。(葱を洗ひはじめる)一日に何度も、下へ降りて来なくつちやならないことがあるんですよ。早く水道が引けるといゝんですけどね。
二葉 明日から、お勝手のお手伝ひをしますわ。今日一日、休暇を頂戴ね。
とね 休暇……? あゝ、お休みですか。えゝえゝ、いくらでもあげますとも……。今迄、水仕事なんかなすつたことはないんでせう。
二葉 どういたしまして……。父と二人つきりの時は、なんでもやりましたわ。胡瓜もみ[#「もみ」に傍点]なんかさせて御覧なさい。手に入つたもんよ。
とね いやだ。今夜は、そのつもりでゐたのに……。
二葉 こんなところで、雪でも降つたら買物はどうなさるんですの。
とね 軽便は止つちまひますしね。仕方がないから、あるもんで我慢するんですよ。今年の冬なんか、お米がきれさうで、さんざ気を揉みましたよ。
二葉 お米がきれたら、どうするんでせう。
とね 荷馬車が通へばですけれど、さもなけりや、餓ゑ死ですわ。でも、それまでには、誰か、なんとかしてくれるでせう。
二葉 安心してらつしやるのね。
とね 男つて、さういふ時には、わりに役に立つもんですよ。
二葉 ほんとね。あなたつて、面白い方……。あたし、好きよ。
とね (更めて、相手の顔を見る)
二葉 失礼だつたら、御免なさいね。
とね 失礼なもんですか。さう云つて貰へば、これでも嬉しいんですからね。あたしみたいな女にでも、若い時があつて、好きなものは好き、嫌ひなものは嫌ひと、はつきり云つちまへた時代があつたんですもの。今は、何を云つても、人がそのまゝに取つてはくれませんけど、あんたゞけには、ほんとのことがわかつて貰へさうな気がしますわ。
二葉 大変なことになつたわね。あたしは、それほど物わかりがいゝんぢやないのよ。たゞ、人つていふものを、そんなに怖がらないだけ……。無遠慮だと思ふ人は、さう思へばいゝんだわ。その代り、おせつかい[#「おせつかい」に傍点]もしないことよ。
とね 姑さんにしてみたいね。
二葉 なつたげるわ。
とね そこにゐると、水が跳ねますよ。(間)あたしや、東京つていへば四ツ谷しきや知らないんだけど、あつちへいらしつたことあつて……。
二葉 四ツ谷の何処でせう。
とね もう、かれこれ十年以上になりますからね。それも、おほかた病院で暮しちまひましたよ。
二葉 おからだ、お弱いの?
とね ……。
二葉 よく肥つてらつしやるぢやないの。
とね あゝ、いやんなつちやふね。あたしが喋るつていや、みんな下らないことばかりなんだもの。
二葉 どうして? そんなことないわ。
とね あたしが以前、どんなことしてた女だか、あなた知らないんでせう。
二葉 以前のことなんか、どうだつていゝぢやないの。
とね どうせ知れるんだから、云つちまふわね。その方がさつぱりするから……。それとも、誰か話した?
二葉 お父さ
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