こゝまで来ましたから、「趣味」の隣りにゐて、幾分はそれと重なり、しかも、本質的にはまつたくこれと違ふ「娯楽」の問題を取りあげませう。
 娯楽的要素は、むろん体育のなかにも、芸術のなかにも、学術的研究のなかにさへもあり、また娯楽を芸術的に、科学的に仕組み、成り立たせることも可能ではありますが、娯楽そのものの本質は、人間が最も自然な姿に於て歓喜し、興奮し、心身のさまでの苦痛を伴はずに、これに没頭し得る「遊戯」でなければなりません。
「娯楽」には、感覚的なものと肉体的なものとが多いのですが、いくぶんは知的なもの、情的なものもあります。
 その何れが最も健全なりやと問はれても、それは俄かに返答はできません。なぜなら、その何れにも、高さの程度があり、むしろ、娯楽の文化的価値は、決して知的なるがゆゑに高く、感覚的なるが故に低いといふやうな見方では決められません。たゞ、その純粋性と自然の品格によつて決められるのです。
 民衆の娯楽、殊に青年の娯楽は、民衆自身、青年自身の手になつたもの、その素朴純粋な精神を精神としたものが、一番高い価値をもちます。私は嘗てかういふ文章を公にしたことがあります。「民衆の娯楽的欲求は元来健全なものだと私は信じてゐる。これを不健全なものにするのは、民衆を食ひものにする手合の陰謀と術策である。営利的娯楽業者と独善的民衆指導者の猛省を促したい。」

 今から考へると言葉が激越に失してゐるやうですが、この事実は今も殆ど改まつてゐません。多少、政府をはじめ、各方面の努力はみられますが、まだまだ効果が挙つたとは云へないくらゐです。

「娯楽」の一番不健全なものは、「生活」と離れて、「生活」から人々を引き離すためにあるやうな種類のものであります。
「生活」の単調を忘れるとか、「生活」の煩はしさを逃れるとかいふ口実が、「娯楽」のために設けられてゐるのは、少しをかしいので、「娯楽」は立派に、「生活」の一部であり、正確に云へば、むしろ、「娯楽」は「勤労」の疲れを癒し、心気を一転させ、明日の「生活」の力を培養する、刺戟と鎮静を兼ねた頓服薬であります。
 それゆゑに、「娯楽」は例へば頭の痛むやうな副作用を起してはならず、また、できれば、いくぶん栄養も含んでゐるやうな代物であるに越したことはないのです。
 しかし、飽くまでも、「娯楽」は、「娯楽」以外の要素のために、「娯楽」たる本質を失つてはならず、それと同時に、「娯楽」を楽しむために、「勤労」を少しでも犠牲にすることは許されません。といふ意味は、「勤労」の種類にもよりますが、計画的に進められ、能率増進のために与へられた「娯楽」の時間を善用する以外に、いはゆる「生活の余暇」を個人的に利用する「娯楽」は、努めて、仕事の妨げにならぬやうな、仕事に用ひる力を消耗させぬやうな種類のものを選ばなければなりません。

 一体、「娯楽」と云へば、外に求め、外から与へられるもののやうに思つてゐるのは根本的な間違ひで、「映画」は殆ど唯一の例外と云つてよく、「演劇」をはじめ、すべてその気になれば、自分たちの手で自由に出来るものばかりです。
 素人演劇については、大政翼賛会文化部編纂の「指導書」がありますから、その精神と実際のやり方を参考にしてほしいと思ひます。

[#7字下げ]八[#「八」は中見出し]

「娯楽」についてはこれくらゐにしておきますが、「生活のうるほひ」について、もう一つ最後に附け加へたいことは、適当な言葉が見つかりませんが、「人との交り」でもよく、たゞ「語らひ」と云つてもよい、つまり、家庭の団欒をはじめ、人を訪ねたり訪ねられたり、また幾人かが一と所に集つて、ゆつくり歓談したりするといふことです。
「社交」といふ言葉は、西洋風に聞え、更に、なんとなく形式張つてゐるやうで、しつくりしませんが、要するに、人と人とが親しく交り、互に心情を吐露することによつて、人柄と思想の面白さに触れ、親愛の度を増し、気持がなんとなくほぐれるといふことは、誰しも屡々経験するところでありませう。
「非社交的」などと云はれる人々は、それはそれで思ふところあつてなのかも知れませんが、戦時生活運営の協同責任者としては、ひとつ是非、考へを変へてほしいものです。
「人嫌ひ」といふ極端な性格も昔からあるにはありますが、モリエールの描いたアルセストほど哲学的でもなく、たゞ、面倒だから、うるさいから、では話になりません。多くは、自分の我儘を棚にあげての強がりに過ぎぬと思はれます。
 人と話をするといふことは、実際、相手によつてうんざりさせられることもありますが、自分の方が案外相手をうんざりさせてゐる場合もあることを反省し、知識交換などと慾張らずに、たゞ「話」をするのが面白い、楽しいといふやうな交際を、青年のうちに努めて心掛け、しまひには、たゞぢつと顔を見合つてゐるだけで心が和むといふやうな、また、口数は少いが、何か云へばきつと味ひのあることが云へるやうな、さういふ互の修業を積むことが、日本人の「生活」をもつと「うるほひ」のあるものとするでせう。
 これで「戦争と文化」といふ題下に、主として、心身の健康について、「武」の精神について、「生活のうるほひ」について説いたことになります。この何れからも、戦時に於ける国民の、特に青年の「たしなみ」の問題が引き出せますが、これは題を改めて、次の章に譲ることにしました。

[#7字下げ]九[#「九」は中見出し]

 さて、「戦争と文化」について、なほ云ひ落してはならないことは、今次の戦争によつて今迄の「文化」がどういふ風に変つていくかといふ問題であります。
「米英的」な文化がわが国並びに東亜から一掃されるであらうといふことは、われわれの信念であり、また、事実それを目的として戦争が行はれてゐるとみなければならないのですが、そもそも、「米英的」文化とは何を指すかといふことになると、これは非常に単純なやうで、実は複雑な課題であります。
 無暗に英語を排斥してみたり、自由主義や民主主義が米英的だといふので、それがどんなものかもわからずに、自由主義と民主主義はいかんと騒いでみたりしても始まりません。
 そこで、私が青年諸君に云ひたいことは、「文化」や「思想」の問題は、ひとまづ、それぞれの指導者の指導に従ふこととし、先づ何よりも、敵国並びに敵国人を憎悪する気持を、更に一層、自分の心の中で燃えたゝせてほしいといふことです。
 その際、仮りにも誤つてはならないことは、いはゆる「坊主憎けりや袈裟まで憎い」といふ流儀で、物事を処理する単純主義に陥ることです。極端な例は、英語で書かれた書物を地上に投げつけて、快哉を呼ぶといふやうな子供じみたことです。
 しかしまた、米英にも学ぶべきところがあるといふやうなことを公然口にし、また、腹の底で繰り返し云つてみるといふやうな煮えきらぬ態度は、断然一擲すべきです。そんなことは、今問題ではないといふことに気づかなければなりません。良心とはそんなものではなく、冷静とはかくの如きことを指すのではありません。若し必要あつて米英の書物を読むなら、むしろ、今こそ敵愾心を以て、その書物の内容を戦利品の如く利用すべきです。戦ふものの当然の心理は、国民の間に共通に動いてゐなければならず、強ひてこれに反するやうな表現をもつて己の意見を述べるのは、国民としての「たしなみ」でないといふことを深く知つてゐてほしいと思ひます。

 戦争はたゞ米英文化をわが国並びに東亜から一掃するだけではありません。わが国の文化を、正しい伝統に引戻し、これを更に発展させると同時に、東亜諸民族の生活の上に光被せしめる使命と力とをもつてゐます。
 こゝにも亦、青年の負ふべき大任があります。青年は、先づ学生生徒として、身をもつて、明日の文化を築く地位に立ち、更に兵士、その他として戦線に赴き、直接間接、後進民族に誘導の手を差しのべなければなりません。日本青年の一挙手一投足は、そのまゝ若き日本の姿として、彼等の眼に映り、彼等の興味を惹き、彼等の夢をかきたてるでせう。
 新しい日本の、伝統に根ざした文化の様相については、前二章であらましのことは尽したつもりですが、それらの説明でもわかるやうに、もちろん、「文化」とは「文化」の名を常に冠して存在するものではありませんし、これが「文化」だと意識しながら、それを創り、また受け容れるものでもありません。
 例へば、この戦争で、ありがたいことには、科学者も芸術家も、みな旧套を脱して、国家意識に眼ざめ、それぞれ専門の知能を傾倒しつゝ、直接間接に国力増進の運動に参加するやうになつて来ました。
 医師も、今までは、特別の勤務についてゐるものは別として、大体開業医といふものは、自分のところに来る患者の診療に当るだけが仕事で、早く云へば、病気になつたものだけを相手にしてゐたのですが、これからは、国の方針として、すべての医療関係者を一丸とし、国民保健、即ち、病気の予防に主力を傾けることになる筈です。
 演劇や映画の企業も、これまでの営利主義を一擲し、国家の統制の下に、企画製作を通じて、戦争完遂を目指した直接の啓蒙宣伝に一層協力することはもちろん、大東亜文化の樹立に先行する、気品と情熱に富む作品の出現を促すでせう。
 教育の問題は、既に一応形式上の決戦体制は整へられ、国民学校の確乎たる基礎の上に、青年学校の充実、中等学校以上の年限短縮など、相当画期的な処置は取られましたが、更に進んで、教育内容の刷新が着々進められようとしてゐます。
 工科系統の学校増設、収容人員の倍加が著しい戦時色の現れであり、師範学校の昇格は、国民学校の重要性を一段と認識させるに役立ちました。
 いづれにせよ、教育は学校のみで行はれるものではないといふ当然の事実が、国家の教育政策として漸く実践的に取りあげられ、家庭教育、社会教育を重視するについても、特に、職場教育とも云ふべき、実務を通じての心身の錬成が、結局、国民教育の仕上げであることを、一般に誰もが同意するやうになりました。非常な教育観の飛躍でありますが、実は、このことは、既に、軍隊教育に於ては試験済みであり、かつ、ナチス・ドイツの例などを引くまでもなく、嘗ての日本人は、総て、家庭と道場と職場に於て、それぞれ、躾けられ、鍛へられ、錬られたのであります。

[#7字下げ]一〇[#「一〇」は中見出し]

 最後に「宗教」について一言します。
 こゝで私は、自分の信仰を基礎として、宗教を語ることができないのを遺憾に思ひます。それならば寧ろ、宗教について何も言はぬがよいとも考へましたが、「戦争と文化」といふ題を掲げ、遂に一言も宗教に触れないといふことは、なんとしても片手落でありますから、たゞ、私一個の感想として、宗教が今日在るがまゝのかたちでなく、明日若しも真に人々を信仰の道に引入れることができるならば、これこそ、戦ひつゝある日本にとつて、絶大の力となるであらうといふことを申すに止めます。
 それにしても、現在の宗教になんの力もないといふのではありません。神、仏、基、それぞれの宗教は、その教義と、これを説く人の人格と、伝道の方法如何によつて、十分青年の求めるものを与へ、その悩める魂を救ひ得るものと信じます。
 特に、神社参拝に見られるいはゆる国体並びに祖先尊崇の国民的信仰は、これを宗教と区別するやう、国家が夙に命じてゐるのですから、宗教と云へば、宗派神道、仏教、基督教、それに僅かの回教があるだけです。
 故に、国民的信仰と宗教的信仰とは、まつたく両立しないものではなく、憲法の章条を引用するまでもなく、国民はすべて、個人または家族としての宗教を奉ずることによつて、安心立命の境地を獲得することができます。
 のみならず、私は敢て云ひますが、青年時代からある宗教の門を潜るといふことは、深い信仰に達するかどうかは別として、少くとも、精神の修練にいくらかの益があるのではないでせうか。最近の社会風潮は、多くの青年が宗教を離れたための、憂ふべき現象に満ちてゐるやうにも思はれます。「天晴れな度胸」と
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