れる間は、なんの差し障りもありません。面白かつたで済むのであります。しかし、さういふ文学のみが市場に氾濫する結果は、なかなか油断がなりません。
 これは少し話は違ひますけれど、今度は「茶の湯」つまり「茶道」と呼ばれるものについてであります。
 私はかねがね興味をもつてこの日本的「芸道」を眺めてゐるのですが、どうも、その道の人が云ふほど、現在の「茶道」なるものが、精神の訓練に役立つとは思へないのです。なるほど、理窟はよくわかりますが、これは一種の「専門化」された技術と、「専門家的な」感覚によつて作られた風習の尊重であつて、必ずしも人間の本性と、生活の実質に即した「芸道」だとは考へられません。恐らくもつと旧い時代の「茶道」には、こんな「あく」はなかつたのではないかとも思はれますが、なんにしても、私は、最も本格的な茶の席で、正統を継ぐ家元の「お手前」を見せてもらつて、非常に感服はしましたが、それはもう芸術家の傑れた作品に感心したやうなもので、「茶道」そのものの巷間に流布してゐる状態と、いはゆる師匠なる人々の生活感度とのなかに、多くの疑問を抱いて今日に至つてゐます。
 婦人が行儀作法の訓練を受
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