法」であります。
「作法」を知らぬ、また知つてゐてもまだ身についてゐないことから生じる中途半端な誤魔化し、それによる思はぬ失態、相手との間の空隙、することが不器用に陥るもどかしさ、それを予め感じれば感じるほど、神経が昂ぶり、頭が乱れ、筋肉が硬ばるのです。
自然であらうとすればするほど不自然になり、うまく切抜けようとすればするほど、つかへつかへするじれつたさはどうすることもできません。
そこで、その「ぎごちなさ」を嗤はれないために、またそれを逃れるために、今度は、意識的に、つまり、わざとさうしてゐるのだといふ風に虚勢を張ることになります。もともと「作法」などは眼中になく、まして人の思惑など気にはしないといふところを、言葉や動作で示さうとします。それほどまでにしなくてもと思はれる青年の「無作法」は、屡々かういふところから生れるのであります。
「照れ臭がり」は、それで自分だけはなんとか救はれた気でゐるでせうが、実は、これほど、あたり迷惑なものはなく、世の中を殺風景にするものはありません。一人の照れ臭がりの息子がゐると、家の中はまことに面倒になります。なぜなら、さういふ息子は、不思議なほど
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