代の日本人は恐しく照れ屋でありまして、殊に、若い人々、わけても教育ありと自他ともに任ずるものほど一般に甚だしいやうです。照れ屋である結果は、なんでもないことを照れ臭がります。殊にそれが目立つのは、人前に出て、いはゆる「改まる」時、人が見てゐる前で、何かをしなければならない時です。
「含羞む」といふことは、子供ならばごく自然で、極端な「人見知り」を除いて、大いに可憐さを増すものでありますし、青年と雖も、ある程度の、そして、素直な「含羞」は、見てゐて決してわるいものではありません。むしろ、それは純真そのものを語るとまで云へるのですが、その「含羞や」が、度を越えて「照れ臭がり」となると、よほど趣きが違つて来ます。
これはもう性格の歪みと云ふべきものでありまして、その根柢には、蔽ふべからざる自尊心の病的な膨らみが観取されます。そして、照れ臭がる場合の心理のうちには、必ず、自ら「ぎごちなさ」を意識し、その「ぎごちなさ」が、人のせゐではなく、自分に何かが欠けてゐるためだといふことを、おほかたは気づかぬ状態が発見できるのです。
その「欠けてゐるもの」とは何かと云へば、人と接する技術、つまり、「作
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