徳は元来「意志的」なものとされてゐるのですが、今日われわれの社会で「道徳」と名づけられ、また、「道徳」で通用してゐるものの多くは、単に「観念」や「理念」を説くことであるか、或は、「感情」の色彩の濃い表情を示すに過ぎないやうに思はれます。道徳は飽くまでも「行為」でなければなりません。仮りに「道徳」を説くことも「道徳的」だとすれば、その説くところは、少くとも、言葉として、「意志」的な響きを伝へ、「意志」としての力をもつた行為そのものでなければなりません。
 道徳論が行為としての価値を問はれることになると、もはや、観念的な高さや正しさだけで満足することはできなくなります。そこには、表現の美しさも要求されませう。意欲の旺んなことも一つの条件となりませう。いはゆる知情意を貫く「誠」の現れとして、行為の人格性が問題となるのであります。

 国家の危急に当つて、国民に一つの行為が要求されるとします。それは他から命令され、強制され、奨励される場合もありませうし、自らの会得によつてそれが観取される場合もありませう。是が非でもやらなければならぬことと、なるべくやつた方がいゝことと、程度から云つてもいろいろ
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