ありますが、それがために、ほかに隙ができ、その隙に乗ぜられるやうなことがあつては、これこそなんにもなりません。
例へば身体の鍛錬が必要だとなると、なんでもかんでも鍛錬で、ほかのことはどうでもいゝといふ風になり、甚だしきは、健康を害するやうな始末では誠に困つたものであります。
競技のやうなものでも、団体の対抗試合とでもなると、もう「勝負」といふ一点に「考へ」が集中してしまひ、勝つた方は「どんなもんだ」といふ顔をし、負けた方は口惜しがつて泣くなどといふ現象は、抑も競技の精神を没却したものであります。
この傾向はまた、人物の観察、評価のうへにも度々現れます。「一事が万事」とは昔から云はれてゐる言葉でありますが、これは諺であつて、それが当てはまる限界といふものがあります。ところが、これを人の一言一動に移し、その全貌を批判するのは甚だ軽率で、若し、敢てそれをするならば、自ら悔いないだけの信念をもつてすべきです。買ひかぶり、見損ひ、いづれもその罪は我にあることを知れば、徒らな警戒よりも、人を視る正しい眼を養ふ訓練こそ、青年の最も心掛くべきところです。
すべて精神の不健康は、なによりも知情意の不調和、不均衡から生れます。従つて、如何に「健康な道徳観」を口にしても、それが知識である限り、それだけでは精神の健康を保証することはできません。例へば、その理論が猥りに排他的なものであつたり、押しつけがましかつたり、衒ひがあつたりするやうでは、その人物の精神活動そのものは、どこか偏したところがあるか、欠けたところがあるかでありまして、さういふ人物は、或は憐憫の情に於て薄く、或は危急の場に於て、不覚を暴露するといふやうな精神的弱点をもつてゐさうに思へます。
[#7字下げ]四[#「四」は中見出し]
日本人は、その日常の行動からみても、また近頃、例の血液型の統計の示すところによつても、欧米人等に比して、著しく「感情的」であるとされてゐます。
感情的であるといふことは、二様の意味にとれますが、感情が豊かで鋭く、その点に於て絶対的に優れてゐるといふ意味と、理性乃至意志に比して感情が強く、一種の不均衡状態にあるといふ意味とであります。
この二つの意味は、それぞれ日本人に当てはまると思ひます。前者は大いに自信をもつてこの長所を益々発揮すべきでありますが、後者はよほどの注意を払つて、成し
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