が、その可能性ありやなしやについて甲は終日頭を悩まします。しかし、自分の方から仲直りを申し出ることはなんとしても自尊心が許さない。向ふからあつさり頭をさげてくれば、――もともと向ふが悪いのだから――とにかく今度だけは赦してやらう。元来、相手は弱気で、平生からこつちを兄貴のやうに慕つてゐるのだから、それぐらゐのことはしてもいゝのだ。いや、するのが当り前だ。さうだ、きつと明日あたり、頭を掻きながらやつて来るだらう。かういふ判断に到達しました。
ところが、実際は、喧嘩の動機から云つても、喧嘩のしかたから云つても、甲の方にどうもよくないところがあり、乙はいはゞ被害者であつて、恨み骨髄に徹してゐるといふ有様なのです。だから、絶交を宣告したのは甲だけれども、乙はむろんそれこそ望むところであつて、仮りに、どんなことがあらうとも仲直りなどはしない覚悟でゐます。
甲はかくして惜しい友達の一人を失ひます。
これはもちろん、甲の反省が足りないところに最も大きな欠陥があるのですけれども、その反省こそ、事実の正確な判断を基礎として行はれなければならないのでありまして、この場合、甲の「希望的判断」が、その反省を鈍らせ、事態を収拾すべからざるものとするのであります。
「物の考へ方」について、もうひとつ、日本人の陥り易い傾向は、「一を聴いて十を覚る」の明察が、その形のみで実質は伴はず、「一を見て十と思ふ」錯覚を生じるといふことです。これを私は「思考力の凝結」と称したいのでありますが、何事によらず、その一面をみて全体を見きはめたつもりになること、或は、一つのことを考へると、それに頭をとられすぎて、ほかの必要なことすらもう考へられなくなること、を指すのであります。
これまた常に、理性と感情と意志とが別々でなく、必ず一体となつて働く極めて自然な状態から生れる結果とは云へません。この三者が三者とも円満に発達してゐることを条件として、これこそ尋常な精神活動と云へるのでありませうが、感情や意志に比して、脆弱な、或は、怠慢な理性であつたならば、その結果は、当然、判断の狂ひ、「物の考へ方」の不正確といふことになるのです。
一事を考へつめるといふこと、物事の一点を凝視するといふこと、一念を凝らすといふこと、それはそれとして、必要なこともあります。必要どころではない、それができるといふことは一つの強みでさへ
前へ
次へ
全31ページ中3ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
岸田 国士 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング