れは同時に、われわれの仕事の本質に関係をもつ。実際、人間として人間性に徹してゐないといはれることは、大きな欠点であり大きな恥辱だ。私はこゝで文学を論ずる資格はないけれど、私の希望を云はせるならば、裁判官である限り、せめて事件を人間性にまで掘り下げ、事件そのものよりも、事件の裏にある人間性の動きで事件を知り、そのなかのよきものを剰さずみとめて欲しいのであつて、それは文学に親しむことによつて最もよく達せられるところだと思ふのである」と喝破してゐる。
文学と裁判との関係は、文学と総ての仕事、職業との関係にこれを及ぼすことができ、更に、文学と「生活」との関係に至つては、三宅氏の所説はそのまゝ、当てはまるのです。即ち、「生活」の表面的な部分や、大ざつぱな動きだけを見てゐては、ほんたうの「生活」はわかるものでなく、その内奥に触れて深い意味を探り、全体を見渡して真実の姿をとらへ、変転常なき形貌を通じて、複雑な「生活の味」を味ふことが、「生活を識る」ことの根本であり、また、「正しく生きる」ことの第一歩でもあるのです。そして、傑れた文学こそは、かゝる道へ人々を導く最も入り易い門なのであります。
さういふわけで、文学に親しむことは、その人自身の心に「うるほひ」ができるばかりでなく、その周囲にも「うるほひ」を与へ、かつまた、その人の眼には人生の明暗、即ち「人間生活」そのものがまたとなく興味あるものとなり、屡々新鮮な感動の種をそこに発見するのです。
人心の機微に触れて、しかも法の尊厳を飽くまでも示す裁判が名裁判と称せられるやうに、日本人としての立派な「戦時生活」とは、一方、生産消費の両面に於て、国家の要請に全力をあげて応へると同時に、また一方、精神生活を飽くまでも豊かにし、特に、古風な言ひ方ではありますが、「義理人情」を尊ぶといふことが最も肝要であると信じます。
一口に「義理人情」と云ひますと、これは偶々封建時代の風習と結びついて考へられることが多いため、或は旧弊とか因襲とかの名で、いくぶん蔑視される傾きがないでもありません。しかし、昔から日本人の「社会生活」を律する一つの掟として、厳しいことはこの上もなく厳しいけれども、またそこに、云ふに云はれぬ「うるほひ」を与へてゐる精神は、実に、この「義理人情」なのであります。
ところが、この言葉の現す微妙なこゝろは、ちよつとほかの言葉で
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