ける意味なら、これはまつたく別の話です。
恐らく、専門家にはあつてよい、或はあつても仕方がない「臭味」といふやうなものもあるでせうが、専門家ならざるものまで、この「臭味」を身につけられては堪らぬといふ気がするのです。ところが、多くの素人は、肝腎な精神よりも、この「臭味」をよろこぶものであります。
「生活のうるほひ」は、決して、この類ひの「臭味」からは生れません。
こゝでひとつ、文学芸術が如何に人間の生活や働きに大きな影響を与へるものであるかといふ例を引きます。
前司法次官三宅正太郎氏の近著「裁判の書」に「裁判のうるほひ」といふ一項があります。これは、「裁判官が事件をさばくに当つて、その事件が立法の不備や行政処分の不徹底なために起つたことであり、被告人にも責むべきものがありとしても、一半の責任は官憲にあると思ふ場合でも、それは少くとも裁判官の責任ではないと思ふが故に、国民の責を問ふ方に力が注がれて、もし被告人にして官憲の不当を訴へるものがあつても、その苦情は直接その官憲に訴へたらよからうといふ風に諭す場合が多い」のを著者は裁判に「うるほひ」がなくなる一原因と見做し、「国家は常に全体として活動してゐるので、その個々の仕事はそれぞれに国家の円満な様相を具現すべきである」といふ観点から、裁判官も、法廷に於て「国家の代表者として国家の円満な姿を体現する」ものとして、いはゆる情理をつくした態度を示すべきであると説いてゐるのです。かういふ考へをもつてゐる著者は、更に、別の項で、「文学」について語つてゐます。
「裁判に関与してゐると、さまざまな人生を見る。しかし通常、記録の表面にあらはれた事件の部分は常套的な人生記録で、よし三面記事的乃至は大衆小説的な興味を寄せ得ても、人生を知る材料には割合に乏しいものである。以前私がよく作家と往来してゐた頃、屡々促されて、取扱つてゐた事件の話をしたが、作家のよろこぶと思つた話は、案外に興味を惹かないで、私の少しも重きを置かない傍系的な挿話がひどく気に入るのを不思議に思つたが、それは自分の人生を観る眼が深くなかつたためであつたことを、後日に悟つたことである」と、先づ謙虚な感想を述べてから、「記録に文学が乏しいといふことが、単に文学の問題ならば、われわれは多く論ずることはない。だが、もしそれは、官憲の眼が人生に徹してゐないからだといふなら、そ
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