とする余り、道徳を無視し、法律に逆ふといふやうな傾向が、過去のヨーロッパの風潮になつたことがあります。唯美主義或は耽美主義と名づけられたものがそれです。
それほどではなくても、趣味人とか風流人とか云はれるもののなかには、なんでも「美しく」ありさへすればいゝといふやうな態度で、生活万般を律してゐるものがあります。これがつまり、「文弱」であります。
何事によらず、専門となると、自分の仕事が世の中で一番尊いもののやうに思ひ込み、自分だけはそれでいゝとしても、他にその考へを押しつけます。
文学者は文学者風に(文学的にでさへもなく)すべてのものを観、批判し、それが知らず識らず読者に伝はつて、文学者でもないのに、文学者風な、ものの観方、考へ方をするものを作るやうになることがあります。それが何時でも危険なわけではありませんが、屡々厄介なことがあります。
どう厄介かといふと、往々にして、文学者は、自分一個の偏つた主観を、全体の人に通じるかの如く、極めて巧妙に客観化する技術をもつてゐて、しかもそれを魅力のある表現に托するからであります。
かういふ文学は、たまにさういふ文学としてそのつもりで読まれる間は、なんの差し障りもありません。面白かつたで済むのであります。しかし、さういふ文学のみが市場に氾濫する結果は、なかなか油断がなりません。
これは少し話は違ひますけれど、今度は「茶の湯」つまり「茶道」と呼ばれるものについてであります。
私はかねがね興味をもつてこの日本的「芸道」を眺めてゐるのですが、どうも、その道の人が云ふほど、現在の「茶道」なるものが、精神の訓練に役立つとは思へないのです。なるほど、理窟はよくわかりますが、これは一種の「専門化」された技術と、「専門家的な」感覚によつて作られた風習の尊重であつて、必ずしも人間の本性と、生活の実質に即した「芸道」だとは考へられません。恐らくもつと旧い時代の「茶道」には、こんな「あく」はなかつたのではないかとも思はれますが、なんにしても、私は、最も本格的な茶の席で、正統を継ぐ家元の「お手前」を見せてもらつて、非常に感服はしましたが、それはもう芸術家の傑れた作品に感心したやうなもので、「茶道」そのものの巷間に流布してゐる状態と、いはゆる師匠なる人々の生活感度とのなかに、多くの疑問を抱いて今日に至つてゐます。
婦人が行儀作法の訓練を受
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