もの」を味ふといふことは、なんと云つても「芸術」を媒介とするに如くはありません。
「芸術」は芸術としての独自の意義と使命をもつてゐます。「芸術」に親しむといふことは、単に、「生活のうるほひ」に資するためではありません。「芸術」の創作はもちろん、これをほんたうに鑑賞するためには、非常な修練を必要とするのですから、すべての人にこれを求めることは無理だと思ひます。しかし、どんな芸術でも、それが実際に傑れたものであれば、何らかの意味で人の魂を打つのであります。芸術の浄化作用によつて、人は精神的に高められ、そこに意外な中毒作用さへ起さなければ、生活もおのづから美化されて来る筈であります。
「芸術」の中毒作用とは、芸術と生活とが離れ離れになり、芸術に親しめば親しむほど、生活が乱れ、荒み、空虚になることを指します。さうならぬためには、日本人としてのしつかりした「生活観」と、健康な芸術を選んでこれに親しむ態度とが必要であります。

「芸術」に限らず、とかく、「趣味」といふものは、前章でも述べたやうに、「道楽」と紙一重でありまして、凝り方によつては、どんな趣味でも、不健全な結果に陥ります。それはもう、「美」を求める域から脱して、「快楽」を追ふ領分にはひるからであります。「生活」そのものに理想なく、日常の「生活」を俗事の如く考へ、「仕事」は衣食の資を得るためと見做す、かの似而非通人の、もつて誇りとする「趣味」を、私は極度に排斥します。
 青年にあつて、特に、「生活」を軽視し、却つて怪しげな「趣味」などをひけらかすのは、その動機や理由はどうあらうと、甚だ「悪趣味」だと思ひます。
「趣味」は繰り返していふやうに、「生活」から離れて、或は、「生活」の一隅に、ぽつりとあつてはならぬものです。「趣味」によつて養はれた「美を味ふ心」は、必ず、「生活」の全面に浸み渡らなければなりません。
 文学のわかる青年が、家庭に於て、「親心」を解せぬといふわけはなく、音楽を好む青年が、扉の開けたてを乱暴にするのは大きな矛盾だといふことに気がついてほしいのです。
「美」を愛し、味ふ心は、日本人として当然深く養はなければなりません。これが、戦時の生活に必要な「うるほひ」を与へるでありませうが、この「美」といふものは、決して、それだけを愛し、味はへば足りるといふものではありません。事実、「美」を尊び、これを至上なもの
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