絶えず目覚ましておくことは、人間としての「生き甲斐」の一つであり、生活に「うるほひ」を与へる肝腎な要素であります。
由来、日本人は、この点にかけては、世界のどの民族に比べてもひけはとらない筈でありました。ところが、近来、さういふ特長がだんだん失はれて来たのではないかと思はれる節があります。
「美しい」といふことが、往々「贅沢な」といふことと混同されるのは、「ほんたうに美しいもの」と、「美しく見せかけたもの」との区別を弁へないところから来るのでありまして、「ほんたうに美しい」ものは決して「贅沢な」ものではありません。「美しい」といふことの本来の意味は、「飾り」ですらなく、物自身の清く磨かれた自然のすがたにあるのであります。
人間の心や行ひの美しさ、その容貌姿態の美しさはもちろん、自然の美にしても、また、芸術の美しさ、国土や歴史の美しさ、生活の美しさ、いづれも、それは、見せかけや装飾ではありません。
ほんたうに美しいものを美しいと感じる力があつて、どういふもののなかにも、美しいところがあることを見出し、それを深く味ひ、自分もまた、生活の隅々で、「ほんたうに美しいもの」を生み出す工夫と努力をするといふことは、われわれの祖先の生活を比類なく美しいものにしたのであります。
そして特にわれわれが知るべきことは、さういふ美しい生活の形式と内容が、誰の考案といふこともなく、長い年月のうちに、時代々々の趣きを加へ、築きあげ、鍛へ、磨かれて来て、はじめて完成の域に達したといふ事実です。これは、さういふ生活を土台として生れた芸術についても云へることで、日本の美は、一人の天才がこれを創り出したといふやうなものは少く、殆どすべては、歴史そのものが、ある時代といふ「天才」の力を得て、無名の傑作、天衣無縫の名品として、この国に与へたもののうちに宿つてゐるのです。
われわれは先づ、それゆゑに、日本の伝統のうちにこそ、真に日本的な「美」を発見すべきです。一つ一つの物の形に囚はれず、その形を生み出した精神に触れることが、伝統の神髄をつかむことです。それと同時に、「新しい美」の正しい味ひ方をも会得しなければなりません。建築、美術、音楽、文学、演劇、映画などを通じ、新しい時代を呼吸する「美」について、理窟の上でなく、感覚と情操の力で、十分の見分けができるやうに訓練を積むことが必要です。
「美しい
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