と最も関係がありさうに思はれますけれども、「野性」は飽くまでも「本能的」なものであり、教育や訓練によるものではありません。それだけまた時に応じては本質としての力を発揮しますが、逆にこれを新たに自分のものにするといふことは殆ど不可能であります。
「野性」に帰れとか、「野性」を養へとか云つてもそれは無理な話で、実際は、不必要、かつ有害な都会的装飾、乃至、繊弱な文化意識を払拭せよといふ意味になるのです。
 最近は、都会といふものが、事毎に槍玉にあげられ、都会そのものが国家のため無用の長物であるかの如き印象を受けます。それに比例して、農村の讃美はその生産性と結んで、今や絶頂に達した観があります。むろんその理由は十分認められますが、これが「文化」といふ問題になると、仮りに「戦争」を主眼とする立場から云つても、そこに極めて複雑な問題が潜んでゐて、さう簡単に、都会と農村の優劣を決定するわけにはいきません。また、さういふことをしてもなんにもなりません。
 この「野性」の問題にしても、なるほど、英国兵は例の「ジャングル」を人間の通れない障碍物ときめてゐたといふやうなことで、日本兵の「野性」が云々されるとすれば、それは少し可笑しいのであります。「野蛮性」を好意的に、或は自己弁護的に「野性」と云ひ直すやうなことになつては、そもそも「野性」のなんたるかを解せぬ始末となりますが、戦時下の要求として、また、最近の歪められた文化的現象を是正する目的で、無暗に「野性」のみを礼讃するといふことは、これまた、一種の「掛け値」に類するものでありませう。
「野性」のもつ逞しい力は、「自然人」としての、人工に蝕まれない、風雪に堪へる精神と肉体にあるのですが、かゝる精神と肉体が、雄渾にして高雅な文化の形成と両立しない筈はなく、要するに、「野性」といふ言葉には、それ自身の価値以上に、これと対蹠的な「末期的文化」への反動的批判が含まれてゐるものと解すべきであります。
 これに類した例に、今はあまり使はれませんが、かの「蛮カラ」といふ表現があり、ハイカラ、即ち気障な西洋紳士淑女風の模倣に反撥して、いはゆる「東洋豪傑」を気取る傍若無人、弊衣破帽の流儀を云ふのであります。
 日本文化の風俗的な現れとしては、たしかにこの種の両極対立が屡々見られます。中道がさういふ形でおのづから保たれて来たといふ風にも見られるのであります
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