言葉といふものは不思議なもので、ある思想もそれを表現する言葉の自由な解釈によつて、様々な陰翳、時とすると、思ひがけない意味まで伝へる場合があります。それ故、徒らに言葉尻を捉へて、あざとい批評を加ふべきではなく、論者の真に言はんとするところを、虚心坦懐に聴くべきでありますが、また同時に、その人の使ふ言葉は、どういふ意味に使はれてゐるにせよ、そのことが即ち、その人の思想を端的に示してゐることも亦、争はれないところであります。
 現代の日本は、言葉の混乱に於ても、正に古今未曾有でありまして、同じ言葉が人によつていろいろな意味に使はれ、殊に、多くは俗世間に通用する誤つた概念でそれを用ふるといふ風ですから、よほどお互に注意して人の言葉を聴き分ける努力をしなければなりません。
 この言葉の混乱、言葉の俗化が、屡々、人の思想を曖昧にし、無意識に畸形なものとし、異臭を放たしめ、これがまた、精神の健康を少からず害してゐることを認めないわけにいきません。

 さて、意志の鍛錬について、最後にはつきり云ひたいことは、日本精神の理想的な現れとして、今や、特に、「武」の一面を昔通りに強調することが急務でありませう。なぜ強調しなければならぬかといふと、それは、戦ふ国民として絶対に必要であることはもちろんですが、明治以来、文明の進歩といひ、文化の向上といふ場合、「文」の字にこだはつて、「武」をこれと対立するものといふ誤つた観念が何時の間にか生じてゐたからであります。それはまた、「武」と云へば、単に「争闘」であり、「腕力」であり、「武技」であるといふ風な、限られた概念でこれを見、これを教へた傾きがないとは云へないからです。
「武」の精神については、いろいろな説明はできませうが、要するに、こゝでは、日本文化の伝統として、その「意志的なもの」の理想的なすがたを示す言葉と解したいのであります。それゆゑ、文武両道とは、職能、技術の上での区別はともかく、元来、日本人の精神能力を二つの面に分けた考へ方でありまして、「文」は主として知情の面、「武」は主に意志の面といふ風に、一応心の現れを形として両分したに過ぎず、若し、日本文化の内容が、真善美の理想を目指すものとすれば、「文武」は渾然一体となつて、その理想の表現を得ることになるのであります。
 今それに気がつくことはたしかに遅いと云へば遅いのですが、しか
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