加の舞台を観て来た人だからだらう、何れも、日本の舞台では嘗て試みられなかつたやうな種類の、いはば、「舞台を活かす」ための戯曲作法的からくりで、これがまた、感心すべきことには、少しのわざとらしさもなく、巧に、必要な場所にをさまつてゐるのである。
 それだけでも、「新劇」の舞台は、この戯曲の上演によつて、先づ第一に、演技上の革命を強ひられたと云つてよく、勿論、これまでに、翻訳劇がその役割をつとめてゐなければならないのを、それが翻訳であるために、自他共に見逃してゐたといふまでであつて、その点、『二十六番館』は、不思議な運命を負はされてゐるのだ。
 要するに、わが国の創作劇も、この一作によつて、はじめて、「新劇的」に眼を覚ましたのだと私は思ふ。つまり、この戯曲の、今日に於ける確乎たる存在理由は、まさに、「今日まで出づべくして出でなかつたものが、やうやく現はれた」といふことだ。こけおどしのテエマにつかず、紋切型のドラマツルギイを排して、ひたすら、「魂の韻律」を捉へることにのみ、その努力と才能とを傾け尽したところ、近来、誠に頼もしきデビュウと云はねばならぬ。
 上演の結果がどうであれ、私は、この戯
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