があります。
疲れても疲れをみせず、腰をおろしたくても起つたまゝでゐるといふ風なことは、それが仮りに「気取り」であつても、さういふ「気取り」ならば青年にはゆるされます。
ましてこの種の「我慢」は青年の自己訓練として当然必要でもあり、また、その「我慢」そのものが、ゆかしくも凜々しくもみえるのです。
青年男子は、何をおいても「男らしさ」の修業を心掛けねばなりません。「男になる」とか、「男を磨く」とかいふ言葉は、主として徳川時代にある特定の階級で用ひられたために、一種の臭味を生じてゐますが、これは決して侠客の専用に委すべき言葉ではないと思ひます。「任侠」の倫理は如何に男性的でも、「やくざ」と自称する理想の低さによつて、たゞそれだけで一般の倫理とはなり得ないだけです。
女子青年が「女らしさ」の完成を目指すべきことも亦これと同様でありますが、「女らしさ」といふことが、とかく誤られがちで、新時代の女性の理想は、たゞ単に「男性のために」といふ従属的な関係のみを基本として打ち樹てらるべきではありません。女は、女としての自らの矜りのために「女らしく」あるべきであります。
男女の特質の詳細な比
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