、やんごとなくなんおはしける」がのつてゐます。道をたしなまれた結果、いとも気高くなられたといふことで、これは明らかに、深い教養が、品位を高めたといふ解釈であります。また、今物語から、「和歌の道をたしなみて、その名聞こゆる人なり」が出てゐます。これは云ふまでもなく、和歌の研究を積んでといふことです。最後に、謡曲から、「露の命を惜しまずして、最期を清くたしなみ給へ」といふ文句が引いてあります。この使ひ方は面白いと思ひます。「最期を清くたしなむ」とは、最期を立派に飾るといふことでせうが、それが平生の心構へにある、覚悟にあることを含めた言葉として理解しなければなりますまい。

[#7字下げ]六[#「六」は中見出し]

 言葉そのものの解釈はこれくらゐにしておきますが、もう少し、「嗜み」といふことについて、具体的な問題を拾つて行きませう。

 昔から、「武士の嗜み」といふことを云ひます。これは、武士として、常人と異つた、或は人並以上の、特別の「嗜み」なるものが考へられてゐたわけです。武士の役割を果すために第一に必要な武芸の修得の外に、武士たるの体面を保つ上に欠くことのできない日常の心掛け、言語動作、装具外容を含んでゐます。
 また、「女の嗜み」といふことが云はれます。女として「かくあるべき」理想を目指して、万事に心をくばり、妻として、母として、主婦として、娘として、申分のない技術と品位とを身につけることであつて、つまりは、日本の歴史が作りあげた日本女性の最も魅力ある映像がそこに示されるわけであります。
「嗜み」といふことは、かういふ風にみて来ると、あらゆる日本人を通じて、それが真の日本人である限り、社会的、性的、年齢的条件に応じて、それぞれに示されなければならぬ力と美との活きたすがたであり、信念と叡智と品位との最も巧まざる表象であります。近代の「教養」は元来結果としてこれと等しいものを目指してゐながら、それは衣裳の如く身に纏ひ、せいぜい栄養としてのみ摂取することで満足する嫌ひがありました。
 従つて道徳は批判に終り、知識は答弁のために用意せられ、実は才能の所産としてしか考へられなかつたのです。そこからは心理の分裂が生じました。観念と生活との遊離が著しい現象となりました。そして、それを誰もが不思議と思はなかつたのです。
 読書は教養のための殆ど唯一の手段と信じられ、また、それは
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