下げ]二[#「二」は中見出し]
青年の一つの「夢」は、なんと云つても、恋愛と結婚でありませう。
このことについては、他に語る人があると思ひますが、一国の文化といふ見地から、そして、夢と現実の問題にからませて、青年の恋愛と結婚について一言しませう。
とにもかくにも、異性相惹き、相結ぶといふことは人生に掛ける最も普通の、そして、最も興味ある「出来事」であります。古来、多くの詩歌や物語が、繰り返し繰り返しこれを主題として飽きないといふのはそのためであります。
まづ、人間の心理、または行為としてこれをみる時に、恋愛は複雑微妙な変化に富み、濃淡色とりどりの多彩な絵巻物となり、時には波瀾をきはめた劇的情景を繰りひろげるのに反して、結婚は、殆ど常に恋愛の終局と考へられ、或は単に「家を持つ」ための便宜手段であるかの如くみられがちであります。
従つて、恋愛は屡々猥らな情事と混同され、結婚は往々にして事務視されるといふ、甚だ憂ふべき傾向を生じます。
恋愛はある特定の異性のうちに自分の意に適つた「美」を発見し、この「美」を通じて相手のすべてを神聖な目的物として追求すると共に、相手からも同様の関心をもたれることを熱望する心の動きであります。
ところで、かゝる異性の「美」は、おほかたは客観的に在るものではなくて、常に、なんとなく心を惹かれる相手のうちに、自分の主観が創り出し、拡大していくものだとする説もあるくらゐで、かうなると、恋愛といふものは、一種の自己陶酔を意味することになります。恋愛は熱病なりと断じた一作家の言葉も、あながち極端だとは云へなくなるのです。
しかしながら、自己陶酔にせよ、熱病にせよ、人間一人の生涯に於て、それが如何なる役割を果すかといふことに問題は帰するのですから、恋愛をたゞ単に軽々しく扱ひ、または、恋愛のために一切を犠牲にするといふやうな態度は、深く戒めなければなりますまい。
そこで、私が先づ云ひたいことは、少年期を終つて将に青年期に入らうとする頃から、異性に対してわけもなく面映ゆいやうな気持を意識するやうになる、いはゆる「思春期」についてであります。
この時期は、青年にとつて最も危険な時期とも云へるのですが、それと云ふのも、この間に、「異性を観る眼」が養はれ、将来、どんな形にせよ、異性との交渉をもつ場合の、大切な「嗜み」が身につくか、つかぬかの境目だからです。
恋愛に多かれ少かれ「夢」の要素があるとして、その最も著しい現象は、「思春期」を含む、恋愛なるものを想像する時代の、つまり、はつきりした目標のない、或は「空想のなかに浮ぶ美しい異性」への、漠然たる「恋心」とでも云ふべきものでありませう。
次には、誰彼となく眼に映る異性のなかから、あてもなくその一人を拾ひあげて、秘かに戯れの思慕を寄せてみるといふこともありませう。
戯れが戯れに終らない悲劇も、この時代においては、さほど深い傷手とはなりません。
この種の「夢」は、はかないと云へば限りなくはかないものですが、しかし、これによつて、現実の恋愛が準備され、その恋愛の値打が予めほゞ決定されるといふことは、看過できないことであります。
恋愛は、それが若し、真に恋愛と名づけ得るものなら、これはたしかに、ひとつの「力」であります。
異性が相愛する、その愛し方によつて、自他ともに成長し、向上し、強大となることは、理窟の上からも、また、多くの例をみても、間違ひのないことです。
かゝる「恋愛」は、また、誰にでも出来るといふものではなく、それに値する人間のみがなし得るのです。しかも、相手がこれにふさはしくなければなりません。
最も美しく、健やかな恋愛とは、最も男らしい男と最も女らしい女との、相思ひ、相許し、相誓ふ魂の結合であります。
相愛の男女の作る新しい世界は、ものみな豊かにして、熱と光にあふれ、事すべて希望のしるしとなつて、幸福は常に呼べば応へんとしてゐます。
が、その反面、恋愛は、あらゆる心理的葛藤の根源であり、水面のやうに定かならぬものであります。このことが、当然、恋愛の多面性、特に猟奇的な性質を語つてゐますが、恋愛の多くが、「悩み」であるといふ所以も亦こゝにあるのです。
「恋愛」を「夢」として夢みる青年男女に望みたいことは、決つた相手のあるなしに拘らず、その「夢」が飽くまでも、かくあるべき恋愛のすがたに近いものであること、そして、恋愛は、事実結婚を予想するとは限らないにせよ、やはり、結婚へのひとつの道として、その可能性の上に「夢」そのものが運ばれて行くことであります。
かくあるべき恋愛のすがたは、傑れた文学のみが諸君にこれを教へるでせう。
結婚へのひとつの道として恋愛を夢みることは、次代を背負ふ国民の一人として、恋愛を厳粛に考へるものの義務であります。
しかも、恋愛は、たとへ主観的な心理の作用によるものとは云へ、青年の精神の錬磨と無関係ではないのでありまして、そこに描かれる「夢」は、享楽、陶酔、自己満足、耽溺などの色彩に塗りつぶされてはなりません。分に応じ、格に適した条件を外さない限り、相手の映像は心身ともに理想化すべきことは云ふまでもなく、その理想化は、浅薄な「美男美女」といふやうな標準によらず、女ならば、真に男らしき男、男ならば真に女らしき女をひたすら想ひ描くことによつて、男は男の矜りを、女は女の矜りを高らかに胸にひゞかすべきであります。そこには、肉体と精神、姿態と性情との、渾然一体となつた「人間美」の典型が浮びあがるでせう。言語動作、思想行為、表情気分、それらのひとつひとつが、すべて魅力であるやうな一人の男性、或は女性の映像を創り出す能力なしには、恋愛らしい恋愛はできぬものと、私は信じます。
結婚は恋愛とおのづからその見方を変へなければなりませんが、しかし、結婚と恋愛とは両立しがたいとする意見には、必ずしも同じがたい節があります。
なぜなら、恋愛が相愛する男女の結合を意味するなら、それはそのまゝ結婚への道でありますし、また、結婚は男女の結合によつて、相愛の誠を示す唯一の形式だからです。
結婚はなるほど、子孫を得るためといふ一つの目的をもつて行はれることは事実でありますが、それにしても、それだけが目的ではなく、また、その目的さへも、相手の選択如何によつて、満足に達成せられるかどうかがきまるのであります。不幸にして子供が得られない場合は已むを得ないとしても、生れた子供の素質と、その成育のしかたとは、かゝつて、「結婚」そのものの意義となるのであります。
「結婚」にも、それゆゑに、大きな「夢」がなければなりません。その「夢」は、恋愛のそれと、美しさに於て異るところはありません。たゞ、「結婚」は、多くは現実の掟に縛られ、その「夢」も、現実の条件によつて破られ易いのであります。
しかしながら、それは、結婚に恋愛の法則をそのまゝ当てはめようとするところから生じる錯誤に基づくものであります。恋愛における対象の「美化作用」は、結婚に於ては、相手の欠点を認容しつゝ、互に長短相補ひ、自他の区別を絶して「家」そのもののうちに融けこむ「同化作用」とならなければなりません。
一心同体の夫婦関係は、恋愛から一歩進んだ、人格の実質的和合を基礎とするものでありますから、「夢」としては一見、華やかさと神秘な翳《かげ》をもつてゐない代り、よりおほらかな、より建設的なものをもつてゐます。例へば、恋愛を天|翔《か》ける「夢」だとすれば、結婚は、地上から足をはなさぬ「夢」です。恋愛は想像と情熱の上に築かれる「夢」ですが、結婚の「夢」は希望と努力のうへに築かれます。恋愛は祈願と追求と、時としては不安のなかに呼吸する「夢」ですが、結婚は、激励と譲歩と、常に信頼のうちに育てられる「夢」であります。
[#7字下げ]三[#「三」は中見出し]
青年の「夢」は、かういふ風に、人生のあらゆる問題、あらゆる事件に向つて伸びて行きます。この外に、或は海外雄飛の夢となり、発明発見の夢となり、或は弱者救済の夢となり、武功抜群の夢となり、最も卑俗なものに、玉の輿に乗る夢があり、一攫千金の夢があります。
世間でよく、空想家とか夢想家とか云はれる類ひの人々があります。
一概には云へませんが、空想家、夢想家の常識で嗤はれる理由は、まづ第一に、その夢が現実からまつたく浮きあがつて生命のある美しさをもつてゐないこと、第二に、年齢や実力不相応であること、などでありませう。
そこへ行くと、青年は、本来「夢」に生きてゐると云つてもよく、たゞ、その「夢」の美しからんことを望めばよいのです。
「夢」の美しさは、日本人としての正しい理想と、青年としての豊かな教養から生れます。そして、何よりも、純真な心を必要とします。世間が「夢のやうな話」と一笑に附するもののうちに、どんな「偉大な夢」がないとは限りません。
[#7字下げ]四[#「四」は中見出し]
多難にしてまた多幸な日本の将来を想ふとき、私は、今日の青年諸君が、一人々々、美しく、逞しい夢をもつてゐてほしいと思ひます。
青年の夢は、もとより国家の理想につながらなければならぬ。そして、それは飽くまでも、自分の至誠と情熱とを土台とし、信念にまで高められる「志」となつて、はじめて輝かしい希望の色を帯び、雄大な気宇を生むのです。
「志」を立てるとは、それゆゑ、国民の一人として、男女の別なく、己の進むべき道をはつきり見定めることであるけれども、そこにはおのづから、境遇の制約があり、個人の力量に応じた道の選択があるべきで、そのことは夢の美しさ、逞しさを少しも阻害するものではありません。なぜなら、昭和の聖代に於ける国民一人々々の「志」は、或は臣道の実践と云ひ、或は職域奉公と云はれるもののうちで十分にそれが遂げられるばかりでなく、そこには、嘗ての時代に見られなかつた、青年への限りない期待がかけられてゐるからです。
戦線に立つて弾雨を浴びるものの大部分は青年であり、生産の場で全身汗となつて働くものの多くは青年であるといふ事実は云ふまでもありません。私たちは、大東亜の建設を目指す長期の国家活動が、今日の青年の手に俟たなければならぬと信じるがゆゑに、その青年の現実のすがたが、すべて、その任にふさはしく、大国民たるの力と品位とを示すものであることを希ふのであります。
こゝに、新しい日本青年の理想の型が生れて来なければなりません。
理想の型とは、いはゆる「典型」であります。かくあるべき最上のすがたであります。男子には男子の、女子には女子の典型が考へられる。しかも、それは根本に於て全日本青年に共通なものを含みながら、なほかつ、それぞれの個性を生かし、職能の特色を発揮し、年齢の段階をはつきり示したものであります。
今日まで、およそ軍人を除いては、社会一般に、この典型なるものを閑却してゐました。それがために、「類型」がはびこつた。「類型」とは一見それとわかる月並な型をいふのであります。役人の型とか教師の型とか、或は商人の型とかいふのがそれです。職業が知らず識らず風貌と言動の上に与へる習性、または固癖のやうなものであつて、それは常に一種の臭味を伴ひ、多くは反感と侮蔑の種を蒔きます。
「類型」は好まずしてそれに陥るものでありますが、「典型」は見事な訓練によつて創造するものです。
昔は今に比べて、各階級ともに、典型を重んずる風があり、武士はもとより、町人ですら、一つの典型をもつてゐました。典型はまづ家庭教育の指標であり、社会に於ける人物批判の尺度でありました。かの「躾け」は、典型に準拠した子女錬成の手段に外ならず、「嗜み」とは、これまた、それぞれの立場で、典型に合致しようとする努力の結果と見るべきであります。
典型が生れるところには、必ず「矜《ほこ》り」がなければなりません。ある種の社会的階級が、嘗ては矜りを無視した時代もありました。さういふ階級や、その階級に属する職業に典型がなかつたのは当然であります。しかし、今日は、何れの階級、何れの職業にも、
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