、恐るべき悪徳は日常茶飯事の如く、人、相助けることは稀で、創造の悦びを讃へるものは子供しかなく、真理は臭いもののやうに蓋をされ、わづかに美しいものと云へば自然と芸術のみといふやうな世界を、まさかに「現実」とは考へ及ばなかつたのです。
予め断つておいたとほり、これは極端な「現実」の悪口で、私自身こんな風に信じてゐるわけでもありませんが、比較的純真無垢にして人を信ずること厚く、学校教育によつて善悪、正邪、美醜を判断する眼を与へられ、人生への希望を、そのまゝ夢として、今日の社会に生きようとする年若き人々の魂は、荒々しく埃にまみれた現実の断片から、そもそも如何なる印象を受けるかといふことです。私が前に行つた「現実」の素描は、そのまゝ彼等の魂に映る「現実」のグロテスクな仮面の羅列に過ぎぬと私は確信するものです。
「現実」の様々な面に対する幻滅は、少くとも青年にとつてのみ、憂欝の種となり得るもので、屡々これは「懐疑」といふ穽に通じる道ですが、これまた、現実を深く識り、理想を高く掲げることにより、そこに新しい希望と勇気とが湧くのでありまして、この種の憂欝は、いはゞ、青年の「夢」の発展を画する一時期であります。
たゞこゝに問題となるのは、一旦「懐疑」の穽に落ち込んだ青年の、理想を見失ひ、「夢」はたゞ「現実」を逃避せんがための「夢」にすぎず、精神の糧はたゞ理論、生活の目標は快適、といふやうな状態にみる例の冷やかな憂欝であります。
それはまた、「満たされざる」気持にひきずられる自分の姿の惨めさを発見することによつて、やゝもすれば「自己嫌悪」につながるものです。
嘗て「近代の憂欝」といふ言葉も流行したくらゐ、西洋でも、ハムレット以来、懐疑と魂の漂泊を誇示する青白い憂欝は、詩的で、ちよつと伊達《だて》な、青年好みの時代色でありました。
これはやがて、「世紀病」とも名づけられたとほり、ヨーロッパ文明の崩壊を予告する徴候の一つとも見るべきもので、文学としてはこの傾向がわが国にも多少伝へられてゐます。
しかしながら、文学の影響だけが、今日まで、知識層の青年を駆つて懐疑主義に赴かしめたと断ずることはできません。忌憚なく云へば、それは「現実」の在り方、特に政治と教育との大きな責任であります。
「懐疑は知識の母」といふ文句が度々口にされました。それはさうでありませう。しかし、懐疑は人生に必
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