要なすべてのものの母ではないといふことを誰も云ひませんでした。それを悟らなかつたのは、必ずしも青年の罪ではありませんが、悟ることの遅きを悔いてゐるのはわれわれであります。
魂の漂泊とはなんでありませう。「国土なき民」であり、「根こぎにされた草木」であり、「家なき子」であります。たしかに寂寥そのものです。「憂欝」の種がこゝにもあるとすれば、それは、日本人には縁なき「憂欝」だと云はなければなりません。
「孤独な魂」とは、なるほど、文学的表現としては一応意味があります。しかし、真に「孤独な魂」は、決して憂欝を面《おもて》に出しはしません。それはまた、寂しさを知らぬ、強靭にして豊かな精神を指すからであります。
要するに、「近代の憂欝」が、まだわが国のそここゝに残つてゐるといふ気配が私には感じられるのです。たしかに残つてゐる筈です。これを一掃しなければ、わが国の発展の障碍となることは明らかです。先づ、自我中心の思想と、科学万能の迷信を打破しなければなりません。次に、功利主義に基づく教育の殻を脱し、日本的政治の復興に堂々と協力することです。
いはゆる専門学校以上を卒へ、精神的労働を目指す現在の青年に課せられた宿題は以上の通りです。
真に美しい「夢」のないところにも亦、一種の「憂欝」があつたのであります。
[#7字下げ]七[#「七」は中見出し]
さきに述べた「生理的憂欝」とやゝ区別しがたいものに、かの「青春の悩み」があります。対象の漠とした焦躁、常に満ち足りぬ心の渇き、捉へ難い幻影の模索、自分に微笑みかけるもののない淋しさ、このまゝ無為にして青春を終るのではないかといふ不安、などが、雑然として胸を締めつけるのです。これが、もとを質せば、簡単な「異性への憧れ」に過ぎないといふのが事実なのであります。その証拠に、ひとたび好もしい特定の異性が眼前に現れるや、その焦躁も渇きも模索も不安も、忽然として影を消すこと請合ひであります。
しかし、また、新たな「憂欝」が、時としては、恋愛のきざしと共に芽を吹きます。
相手に十分心の通じない焦躁、常に相手の顔が見えぬ物足りなさ、相手の気持がわかつたやうでまだはつきりわかつたと云ひきれぬ不安、競争者の現れる危惧など。
恋愛心理の解説はもうこれ以上不必要と認めますが、かうなると、恋愛こそは、病であると云はねばなりません。病の徴候として
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