のとも、また悪意のあるものとも断ずることはできませんが、「夢」に逆ふ現実の力は、苛酷であり、圧倒的であります。青年の「夢」は、如何に美しくても、首を横にふる現実の前では、如何ともしがたいのです。かゝる現実との血みどろの闘ひも、本来は、青年の「夢」の筋書には書き込まれてゐなければならないのですが、青年には、悲しいかな、現実の予想され得る挑戦にすら、これに応ずる万全の備へといふものがないのです。
「夢」を夢みることもできず、現実の暴威の前に、一切の勇気と笑ひとを失つた青少年の姿ほど痛ましいものはありませんが、それにも増して、「夢」とも云へぬ小ざかしい「妄想」を心の隅に抱き、ひとたび現実に立ち向つてそれが吹き飛ばされるや、めそめそと泣面をかくやうな手合こそ、世にも憐れな存在と云ふべきであります。かゝる「憂欝」はこゝで論ずる限りではありません。
努めて現実を直視し、しかも、現実の彼方に夢を求めて、青春の血を沸きたゝせることは、その現実の峻厳な批判と抵抗とにひとたびは夢を破られても、決して、ひるむことを知らぬ果敢な精神の発露でなければなりません。
この時、憂欝はむしろ、自己の力の過信と不明とを悔いる反省の鞭のひゞきであり、更にまた、一層強靭な「夢」を養ふ鍛錬の汗の一と時だとすれば、かゝる憂欝は暗色にして必ずしも暗色ならずと云ひ得ませう。
たゞこゝに、救ふべからざる如く見えるひとつの憂欝の原因があります。
それは、青年の胸中に知らず識らず巣喰ふ幻滅の虫です。言ひ換へれば、現実とはかくまでも理想とかけ離れたものかといふ、絶望に似た空虚感であります。
まことに、現実とは理想から遠いものであつて、さうであればこそ、現実と云ひ、理想と云ふのです。然るに、青年の「夢」は、どうかすると、現実を理想化し、理想を現実化することなのです。常識を以てすれば、そこに大きな矛盾があるわけですが、この矛盾は、しかし、信念と情熱との前では、容易に矛盾などといふ冷酷な姿は示さないのです。それにしても、現実は、徐々に、ありのまゝの相貌を青年たちの前に露出しはじめます。それは、青年たちにとつて、あまりにも「醜い姿」と見えるでありませう。それもその筈です。「かくあるべき人生」について、彼等は、長い間懇々と教へられ、しみじみとかゝる「人生」への門出を心に祝つた、その翌日だからであります。
極端に云へば
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