生活の黎明
岸田國士
私は国民の一人として考へます。
日支事変がはじまつて既に四年、しかもいはゆる聖戦の目的はまだその半ばをも達成してをりません。しかも、世界動乱の渦は欧洲大陸より太平洋に波及し、わが南北には文字通り、新たな国境――国を挙げて死守しなければならない明確な一線が地図の上に引かれたのであります。
何処で何時、何が始まるかを、われわれは固唾を呑んで見戍つてゐるわけでありますが、実はそれらのこと一切は責任をとるべきものがとるのでありまして、われわれ国民は、何が何処でいつ起つてもびくともしないだけの準備を整へること、それだけが大切なのであります。
国民の一人一人のこの覚悟は、すなはち、国の力となつて、いろいろな形で表れて参ります。
第一には、もちろん、政治、軍事、外交、経済、産業、といふやうな国家活動が、必要に応じ、めざましく伸びて行きます。
第二には、国民全体の生活が、無駄も隙もなくなり、がつちりと落ちついて来ます。
ご承知のやうに、これからの戦争は、武力の戦ひだけではなく、国家の総力の戦ひだと云はれてをりますが、この総力といふ言葉の説明の仕方が、今までいくぶんはつきりしないところがあつたやうであります。経済戦とか、思想戦とか、宣伝戦とか、さういふ方面のことはしばしば耳にしたのでありますが、例へば、生活戦といふやうなことは、あまり皆さんもお聞きにならなかつたのではないかと思ひます。
しかし、一般国民として、既に戦線にあるのもおなじだといふ心構へからすれば、日常生活、即ち、敵との戦ひを意味するのでありまして、敵はあらゆる手段を以て、直接間接にわれわれの日常生活を脅かさうとしてゐることに気づかなければなりません。
物資の不足は、嘗ては戦争の偶然の結果と考へられもしたが、今日では、これがそのまゝ戦争の姿であり、敵の作戦がこれを目的としてをり、われわれがこれに対して戸惑ひすれば、それだけ、敵は凱歌をあげるのであります。
買ひ溜めとか闇取引とかいふ行為は、従つて、国民相互の信頼と協力を困難にするものでありますから、これは明らかに、敵を利する裏切り行為であります。
それほどのことゝは思はずに、われわれは、衣食住の上で、または人と人との接触の上で、つまり、日々の生活のあらゆる瞬間に、戦ひつゝある日本の力をすりへらし、敵国に乗ずる隙を与へてゐるのであります。
生活の不安は、国民一人一人の心がしつかりと結びつけられてゐないところから来るのでありまして、日本のやうな国では、戦さがいくら続いても、例へば欧洲諸国のやうに、国内がまつたく饑饉状態に陥るなどゝいふことはあり得ないのであります。たゞ、現在のやうに、隣人相助けるといふ精神が薄く、誰かゞ困つてゐても見て見ぬふりをするものがなかなか多いといふ状態では、国民の一人一人が、なるほど安心してはゐられないやうな気持になるのは尤もであります。
私は国民の一人として、こゝで皆さんに提議いたしたいのですが、先づ、いかなる事態に立ち到らうとも、隣組はしつかり手を取り合ひ、そのうちからは一人も食に饑ゑるやうなものを出さないことを誓ふことであります。こんなことは当然のことですが、まだまだ、われわれはその一事さへ信じ合ふといふところまで行つてをりません。これがまことに不安と云へば不安であります。
そればかりではいけません。隣組は更に、次ぎのことを約束したらいかゞでせう。
万一、老人や子供を避難させるやうな場合、主人や主婦は、それぞれ勤先や町内の勤務に服さなければなりませんから、その代りになつて、一手にそれらを預る専任のものをきめておき、決してばらばらにならぬやう、責任を以てその保護に当ることを予めきめておくのであります。
こんなことも、既に気がついて実行してゐる隣組もあると思ひますが、私はこれも上から命ぜられる前に考へておくべき大切な準備の一つだと信じます。
さて、かういふ風に、次ぎから次ぎへと準備を進めて行きますと、今までのわれわれの生活はなんといふ隙だらけな、そして、無駄の多いものだつたかといふことがわかります。
どうしてもなくてはならぬものがなく、あつてもなくてもよいものがざらにあるのであります。物質的にもさうでありますが、精神的には更にさうであります。
一家族を単位とする生活が、いはゆる家族主義の名のもとに、あまりに、家族本位になりすぎてゐたことも、かういふ時代に、反省してみなければなりません。国家を形づくる一細胞としての家と家とは、今日まで、ほとんど利害を同じくするところのない他人同士で通つてゐたのであります。さういふ風にして近所と対立してゐる家の生活といふものには、なによりも、経済と神経の浪費が数へられます。大都市に於ては殊にさうであります。
かういふ家の
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