足もて、
おほらかに、ねんごろに、
手馴れしさまに食《た》うぶるなり。

芋はよきかな。
薩摩芋はよきかな。
これをくらふ時、
人おのづからにして気宇闊大、
時に愛嬌こぼるるがごとし。

大君の墾《はり》の広野に芋は作りて、
これをしも節米の、
混食の料《しろ》とするてふ忝《かたじけな》さよ。
つはものは命ささげて
海のかなたに戦ふ日を、
銃後にありて、身は安らかに、
此のすこやかの、味豊かなる畑つものに、
舌を鼓し、腹打つ事のありがたさよ、
うれしさよ。

芋なり。
配給の薩摩芋なり。
その形紡錘に似て
皮の色紅なるを紅赤とし、
形やや短くして
紅の色ほのぼのたるを鹿児島とす。
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 この詩にうたはれた生活を見ますと、私がこのお話のうるほひの要素となるものを、希望、感動、新鮮味とあげてきまして、更にそれを生み出す源として智慧、ものを味ふ心、即ち芸術的精神と愛情、特に日本的義理人情をもち出したのでありましたが、この詩を通じて私の申しましたことが、ほゞ当つてゐるかと思ふのであります。
 なほ、もう一つ例をあげますが、最近、或る未知の婦人から私あてに手紙がまゐりました。その手紙の内容を簡単に紹介いたしますと、その婦人は二人の子供さんをお持ちださうですが、近頃、街頭で、主婦達のかはす会話を聞いてゐると、まことに途方に暮れるやうな気持がする。「ものが無い。ものが無い」をいくらかでも聞かずに済ますわけにはいかないものか。女が二人寄つて「ものが無い、ものが無い」となげいても何の役に立つだらうか。自分は子供をもつ親として、以後、ものが無いをいふ代りに、子供達の将来のためのことを考へてやつたらどんなものでせう――。その婦人は、更に、自分で考へた文句を小さな紙片に印刷して、浴場だとか、市場とかで配りたいと申出てこられました。その文句の第一は、
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皆様、私達お互ひ日本人は、「ものが無い、ものが無い」を挨拶代りにいふことをやめようではありませんか。さういへば不足勝ちなものが出てくるわけでもありませんから。
かへつて寂しくなるだけでせうから。
いないな、それどころか、皆様のまた次の代の国民たる子供さん方皆が、精神的に受ける影響はいかばかり悪いか、大きいか。
それは申すまでもないと存じられますから。
ぐちをいふ前に、私達はせめて、愛する子供たちの
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