きな力となるものだと私は信ずるのであります。これまた、殺風景な日常の生活にうるほひあらしめる要素であります。
さてそれなら、生活にうるほひを与へるにはどうすればいゝかといふことになりますが、今まで繰り返していひましたやうに、こゝに生活といふものがあつて、それに、外《ほか》からうるほひになるやうなものを与へていくといふやうな考へ方ではいけないと思ひます。生活にうるほひがなければならぬといふことは、生活する人その人自身の心に、すでにうるほひがなければならぬといふことを意味するのであります。
例へばこゝに、親子三人のつゝましい家庭があるとします。戦時下の不自由がちな生活は、この家庭も他の家庭と違ひありません。ところが、この家庭の生活には、ほかの家庭に見られないうるほひがあるとします。そのうるほひは、勿論三人の家族の各々が作り出すものでありますけれども、それを生活のうるほひとして感じることがまた大切なのでありまして、若しかういふ生活に興味をもたない他人が見たなら、それは全く平凡な、退屈な、殺風景でさへもある生活と見誤まるかも知れないのであります。さういふ生活をうたつた詩がありますから、それを、こゝで披露いたします。この詩は尾崎喜八さんの作で、「此の糧《かて》」と題したものであります。
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芋なり。
薩摩芋なり。
その形|紡錘《つむ》に似て
皮の色、紅《べに》なるを紅赤《べにあか》とし、
形《かたち》やや短かくして
紅の色ほのぼのたるを鹿児島とす。
霜柱くづるる庭のうめもどき、
根がたの土に青鵐《あおじ》来て、
二羽、三羽、何かついばむ郊外の冬、
その陽当りの縁近く、
大皿の上、ほかほかと、
甘やかに湯気を立てたる薩摩芋。
親子三人、軍国の今日の糧《かて》ぞと、
配りおこせし一貫匁の芋なり。
芋にして
紅赤を我は好む。
紅赤の蒸焼せるをほくと割れば、
さらさらときめこまかなる金むくの身の
いかに健《すこや》かにも頼むに足るの現実ぞや。
鹿児島の蒸《ふ》かせるは、
わが娘とりわけてこれを喜ぶ。
鹿児島の肉は粘稠
あまき乳練れるごとき味ひは
これぞ祖国の土の歌、
かの夏の日の勤労の詩なりかし。
紅赤の、はた鹿児島の、
其のいづれをも妻はとるなり。
妻は主婦にして又人の子の母なれば、
好みは言はじ、選《え》りもせじ。
ひたすらに、分つ者、与ふる者の満
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