世帯休業
岸田國士

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)硝子《ガラス》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)今頃|家《うち》を

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#ここから2字下げ]

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)いよ/\
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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人物

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夫 渋谷八十一

詩人 鳥羽
妻の母
君い女 かも子
夫の友人 茶木
八百や
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第一場

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舞台は、すべて戸締りをした家の内部。正面やゝ高きところに鉄格子をはめたスリ硝子《ガラス》の小窓。外の光がその小窓から射し込んで、茶の間の一部をかすかに浮き出させてゐる。
表で戸をたゝく音。
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声  留守ですか、僕です。おい、僕ですよ、奥さん、鳥羽《とば》ですつたら……。

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やがて、正面の小窓が開く。長髪の男が家の中をのぞき込む。
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男  今頃|家《うち》をあけるなんて、しやうがないなあ。僕はまあ仕方がないとして、御亭主が帰つて来たら、問題だぜ、これや……。それとも、僕が国へ帰つたのを幸ひ、今日は夫婦連れで浅草へでも出掛けたかな。さうだとすると、僕は鍵をもつてないから、家ん中へはひることができない。どれ、鞄を縁の下へでも放り込んどいて、ひとつ、鴨子《かもこ》嬢のところへ遊びに行つて来よう。(硝子戸を締め、立ち去る)

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この時、勝手の方から、洋服姿で折鞄を抱へた男が、のつそり部屋の中に現はれ、茶の間を横ぎつて座敷の方へ行く。しばらくして、またインバネスに手提鞄を提げた男が、同じく勝手の方からはひつて来る。後から来た男は、そこへ立ち止つて、奥の方をすかしてみる。
[#ここで字下げ終わり]

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男  (半ば恐る恐る)誰だ、そこにゐるのは?
奥の声  さういふ君こそ誰だ。
男  名前を言つても、恐らくは知るまい。
奥の声  なんの用があつて、はひつて来た?
男  それは、こつちからきゝたいくらゐだ。
奥の声  僕は、この家《や》の主人だ。
男  戯談言ふな。おれはこの家《や》の下宿人だ。
奥の声  鳥羽さんなら国へ帰つてる筈だ。
男  おや、おれの名前を知つてやがるな。君はおれの詩を読んだことがあるか?
奥の声  無理に読まされたことはあるが、面白くないから、読んだふりだけしておいたんだ。
男  ところが、そんなふりをしたつて、なんにもならないんだ。こつちは、どうせ、書き損ひしか読ませないんだ。それはそれとして、奥さんはどうしたんです。
奥の声  しばらく家《うち》にゐないんです。あんたは予定変更ですか。

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雨戸を繰りはじめる。家の中が急に明るくなる。
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詩人  やあ、たゞ今。いよ/\親爺《おやぢ》とは絶交しました。但し、お袋《ふくろ》が今まで通り内証で仕送りをしてくれる筈ですから、別に慌てることもないわけです。奥さんが留守のせゐか、いやに家《うち》ん中《なか》が散らかつてますね。僕の部屋なんか、誰か掃除するんですか。
夫  無論、誰もしません。(洋服を脱いでドテラに着替へる)しかし、あなたが帰るまでには、家内も帰つて来ることになつてます。
詩人  僕は一週間の予定だつたんだから……すると、もうあと幾日《いくんち》です。
夫  あれが十六ン日《ち》(指を折り)明日《あす》、明後日《あさつて》、……しあさつていつぱいには帰る筈です。
詩人  それまで僕は、どうするんですか、飯なんかどうしてくれます?
夫  なんとかしませう。電報で呼び戻してもかまひません。
詩人  遠方ですか。
夫  えゝ、里の方へちよつと……。
詩人  お里つて言へば、四谷《よつや》か、どつかぢやありませんか。
夫  さうです。
詩人  いやに落ちついてるんだなあ。まさか、奥さんに逃げられたんぢやないでせう。
夫  逃げるくらゐな奥さんなら、わたしだつてもうちつと、別の方法を考へますよ。
詩人  すると、それ以上重大な問題が起つたわけですね。
夫  まあ、その話はそれ以上きかないで下さい。わたしたち二人だけの問題なんだから……。
詩人  それやさうだ。僕は、たゞ、下宿人として、自分のことを心配してゐるだけです。なんならほかへ移りませうか。
夫  とに角、家内が帰つてからのことにして下さい。早速、電報を打つて見ますから……。

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夫は、蟇口を懐へねぢこんで外へ出る。詩人は、そのまゝ二階へ上るが、やがて、
[#ここで字下げ終わり]

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詩人の声  (朗唱する)夫婦、繋がれた一|対《つゐ》の男女、朝は夫の仏頂面《ぶつちやうづら》、夜は妻の溜息、十年一日の如く、これも自業自得、互に見あきた顔と顔。

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玄関の方から風呂敷包みを抱へて、妻がはひつて来る。審《いぶか》しげに家の中を見廻す。ふと、二階の声を聞きつける。
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妻  (階段の中途までかけ上り)鳥羽さん、もう帰つてらしつたんですか?
詩人の声  早く飯を食はして下さい。
妻  何時《いつ》お帰りになつたの。
詩人の声  もうさつき……(現れる)飯を食ひ損《そこな》つて、腹がぺこ/\だ。汽車で弁当を買ふつもりでゐたら、つい寝込んぢまつて……眼が覚めてる時は、生憎《あいにく》汽車が動いてる時なんです。
妻  うちの人は? どうしたでせう。
詩人  今、電報を打ちに出かけました。
妻  電報を? 何処へ?
詩人  郵便局へ。
妻  さうぢやないのよ。誰んとこでせうつていふのよ。
詩人  あなたんとこだつて言ひましたよ。そいぢや、電報を見て帰つて来たんぢやないんですか。
妻  出掛けて、もうそんなになりますの。
詩人  なるかも知れませんよ。喧嘩でもしたんですか。
妻  あの人、何か言つてました?
詩人  僕の想像では、あなたがいよ/\先生に愛想をつかしてお里へ帰られたんぢやないかと思つてました。
妻  さういふ意味もないことはないんですの。あなただから御話しますわ。まあ、かういふわけなのよ。聴いて頂戴。
詩人  坐つて聴いてもいゝでせう。(二人、長火鉢のそばへ坐る)
妻  あなた方にはおわかりになるかどうか知らないけれど、あたし達夫婦は、今、倦怠期なの。
詩人  倦怠期……ふうん、結婚後何年目です?
妻  七年目ですわ。
詩人  ぢや、おそい方だ。倦怠期《そいつ》の来かたが……。
妻  でも、これが四度目ですもの、やりきれないつていふ時期がよ。
詩人  四度目……約一年おきにやつて来ますね。
妻  それで、たうとう、二人で相談したんですの、お互に呼吸抜《いきぬ》きをしようつて……。
詩人  僕のゐない間だけ。
妻  さう、一週間だけ、つまり、世帯休業《しよたいきうげふ》よ。夫婦生活の休暇ですわ。

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この時、夫が帰つて来る。妻の姿を見て、別に驚きもせず、かるく会釈をする。
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詩人  奥さんからすつかり聞きましたよ。今、休業中なんですつてね。
夫  だが、あなたに関係はありませんよ。
妻  さうよ、あなたは平気でいらつしやつていゝのよ。
詩人  すると、どういふことになるのかなあ。僕のいろんなことは誰がしてくれるんです。それは世帯以外と認めるんですか。
夫  無論です。
妻  でも、あたしは、なんにもしませんよ。第一、けふ帰つて来たのは、全く偶然なんですもの。
夫  偶然でもなんでも、鳥羽さんの世話だけは、お前の役目だ。
妻  戯談《じようだん》おつしやい。下宿人をおいてるつていふのは、誰のためなんです。あたしのためばかりぢやありませんよ。
夫  おれのためばかりでもない。
詩人  世帯のためだ喃《なう》。
妻  さうです。ですから、その方も休ましてもらひます。
夫  おい、おい、そんな無茶をいふやつがあるか。
妻  なんです。それは誰に向つておつしやる言葉です。あたしは約束の期間中、あなたから妻といふ取扱ひをうけないはずでしたわね。
夫  それと、これとは問題が違ふ。
妻  いゝえ、違ひません。約束の条文を変更しない限り、あたしには、なんの義務もありません。
夫  さういふならそれでいゝ。お気の毒だが鳥羽さんには、もうしばらく国へ帰つてゐて頂かう。
詩人  僕は国へ帰るのは困りますよ。そんなわけなら、どこかほかへ、下宿を探しませう。しかし、一体、その約束の条文つていふのは、どういふんです。差支なかつたら、僕に聞かしてくれませんか。或ひは、解釈の仕方で、奥さんが言はれるほどの面倒な結果にはならないかも知れませんよ。
夫  いや、実は、かういふわけなんです。われ/\夫婦は、一見ほかの夫婦と変つたところは、ないやうなんですが、よくその関係並に現在の状態を突つ込んで考へてみると、世の中にはまたとない不思議な夫婦なんです。(間)われ/\は、もと/\恋愛から出発した結婚をしてゐる。
詩人  僕が聞きたいつていふのは、その成立ちでなく、あなた方|今日《こんにち》現在の関係、つまりその、世帯休業といふものに関する規約の条文です。
夫  それはつまり……(と言ひながら、机の抽斗《ひきだし》を開け、紙片を出す)
妻  第一に、我々夫婦は……。
夫  ちよつと待て、読んでみます。
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 我々夫婦は左の規約に基き、一週間の間、夫婦関係より生ずる一切の精神的物質的負担を排除す。
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一、夫婦は互に相手の存在を無視し、行動の自由を保ち得べきこと
一、夫婦は何《いづ》れも、現在の住所に起居する場合、談話応対等、全く従来の習慣を破毀し、総て別人としての待遇をうくべきこと
一、夫婦は、双方の自由意志又は家政一般に関する問題につき、如何なる場合といへども、助力、干渉、命令、相談、注文等をなさゞること
一、夫婦の一方が、一家共同の名誉利益に反する行為をなし、又は故《ことさ》ら相手に苦痛を与へんとする言動を犯したる時は、将来永久に夫又は妻としての権利を放擲したるものと認む
一、夫婦の一方が、疾病《しつぺい》に罹《かゝ》りたるときは、隣人として看護の労をとること、たゞし、体温三十八度以下の風邪、又は単に頭痛腰痛み等にありては、必要に応じ、薬を調達するのみをもつて足れりとす
一、休業中と雖《いへど》も、金銭の支出は、毎月の予算を超過せざること、但し、炊事停止による丼物《どんぶりもの》の勘定は、この限りにあらず
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[#地から3字上げ]以上
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詩人  なるほど、可なり厳重ですね。しかし、僕がゐないものとして作られた規約なんだから、そこを少し改正して、なんとかならんこともありますまい。
夫  改正するとすれば、第二項に但し書を入れるんだが、双方異議はないかな。
妻  あたしの方は大いにあります。但し書によつて、この条項は全く死んでしまひます。行動の自由が全く保たれなくなります。
夫  それは止むを得んさ。われ/\は家庭以外に、束縛をいくらもうけてゐる。一方が下宿人の世話をすれば、一方が会社へ勤めなけれやならん。その点|寧《むし》ろ、現行規約は不公平なくらゐだ。
妻  一旦決めたもんを、そのくらゐの理由で、変更するのは不賛成です。
詩人  よろしい
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