、僕一人のために、折角あなた方が、非常な期待をもつて実行されつゝある革命的試みを中断させるといふのは甚だ不本意ですから、この際僕の方で譲歩しませう。その代り僕にも一つ、その試みを成功させる上での、適当な役割を振り当てゝ下さい。そこで若し、許していたゞければ、僕がこんな提議をしたいと思ふんです。
夫 どういふことかよく判りませんが、まあ、言つてみて下さい。
詩人 現に、その規約についても、御二人の間に解釈の相違が生じてゐるやうなわけですから、あと三日間、もし一緒に住はれるといふ段になると、いろ/\不便なことが生じて来て、結局どつちからともなく規約を破つてしまふことになると思ふんです。さういふ場合に、僕がそばから公平な判断を下して、一々裁決をするといふことにしたらどうでせう。一方が誤つて規約に触れた場合も、僕が直ぐに注意をするといふわけです。これはうるさいかも知れませんが、一番実績を挙げ得る方法ぢやないかと思ふんです。
妻 あたくしは、さうしていたゞければ、結構だと思ひますわ。でも、お勝手はしたくないときにはしませんよ。
詩人 御心配は要りません。僕が台所は引うけます。
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第二場
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茶の間には寝床が敷いてあり、妻が夜着にくるまつて寝てゐる。
夫は座敷で洋服を着ながら、足で寝床を隅の方へ押しやり、朝食をする場所をこしらへてゐる。
詩人が台所から湯気のたつた釜をかゝへて来る。夫はシヤツ一枚で、急いで茶の間のチヤブ台をとりに行く。
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夫 やア、どうもすみません。味噌汁の身はもういれてくれましたか。
詩人 いつ買つたんだか、豆腐が半分ばかり戸棚にはひつてましたから、そいつを入れました。
夫 いつんだらう。この前のだとすると、あれやあんたの立つた日ですぜ。もう五日にもなるが、大丈夫かな。(味噌汁の鍋をとりに行く。その間に、詩人は長火鉢に火をうつし、茶わんやはし箱を揃へる)
詩人 時間はいゝですか。(さう言ひながら、また台所へ行く)
夫 (食卓につき)ちよつと、お序《ついで》にしやもじをどうか……。
詩人 (しやもじを持つて来る。妻の寝床を飛び越える拍子に、妻の足をふむ)
妻 あ、痛た。
詩人 御免、失敬。
妻 あしたから、そつちへ寝ますからね。
夫 僕のそばへかい?
詩人 エヘン。
夫 (考へて)わたくしのそばへですか。
妻 馬鹿お言ひ、あたし一人でそつちへ寝るのよ。(起き上り)やかましくつて眠てられやしない。(夜具をたゝみ押入へしまふ)
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その度毎に、風が埃をまくし上げて、男二人の食事を脅やかす。
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夫 これは、たしかに規約違反だ。どうです、鳥羽さん。
詩人 第何項に該当しますか。
夫 「故《ことさ》ら相手に苦痛を与へんとする言動を犯したる時云々」の項です。
詩人 さやう、まあ、これくらゐのことなら、苦痛とはいへますまい。
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この間に、妻は着物を着終り、勝手の方へ行く。
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夫 しかし、昨夜《ゆうべ》僕が、寝床へはひつてから講談を読んでゐたら、家内が「エヘン」と言つた。声を出して読んだことに対する抗議だらうと思ふが、これはどうですか。
詩人 奥さんは、もうやすんでをられましたね。
夫 眠つてはゐないはずです。
詩人 あとで調べませう。漬物がありませんね。
夫 ありません。
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妻が顔を洗つて出て来る。鏡台に向ふ。
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詩人 奥さん、昨夜《ゆうべ》伺つたところによると、御主人は来月から昇給ださうですよ。僕が代つて報告しておきます。
妻 それはお目出度う。また五円ですか。
夫 上らないよりやましだ。小遣がいくらか豊富になるし……。
詩人 エヘン。
夫 これもいけませんか。
妻 白粉《おしろい》がどうしてこんなに減つたんだらう。あたしの留守中、まさか使ふ人もないでせうにね。
夫 (詩人の顔を見る)
詩人 夜の化粧が女性の武器なら、朝の化粧は女性の勝どきだ。
妻 あたし、今日は活動が見たいの、一緒に行つて下さらない、鳥羽さん。
詩人 (夫の顔を見て)お伴《とも》しませう。
妻 結婚してから、たつた三度きりよ、活動へ伴《つ》れて行かれたのは。自分が嫌ひなものは人にも見せない方針らしいのよ。
詩人 エヘン。
妻 なにがエヘンなの。別に規約には……ないでせう、そんなこと。
詩人 故《ことさ》ら相手に苦痛を与へんとする言動を犯したるとき……。
妻 誰が苦痛なの。どつちが苦痛なの。不公平よ、あなたは……。
詩人 審判官には苦情を云ひつこなしにしませう。納まりがつかないから。
妻 黙つてゐる方が得ね。
夫 そりや得だ。
詩人 エヘン。
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勝手口で「今日は……八百屋ですが、何か御用は……」と云ふ声。誰も答へない。また「今日は、八百屋ですが、何か御用は」
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妻 鳥羽さん、あなた要るもんがあつたら、註文して頂戴。
詩人 今日は間にあつてゐます。
夫 晩はいゝですか。
詩人 おい八百屋さん。何か野菜を少し持つて来てくれ。
八百屋の声 野菜は何にいたしませう。
詩人 何でもいゝよ、芋でも大根でも……。
八百屋の声 おいくらばかり……。
詩人 芋を五十銭に、大根を五十銭……。
妻 そんなに持つて来たつて仕様がないわ。
詩人 それぢや、ねえ、芋と大根を両方で五十銭……。
八百屋の声 毎度ありがたう……。
夫 その半分でよかつたですねえ。
妻 半分だつて多過ぎるわ。
詩人 エヘン/\。奥さん早く喰べないと、味噌汁がカスだけになりますよ。
妻 あら、あたしは自分でこさへてたべるからいゝんですよ。
詩人 へえ、僕が折角こさへたのに……。
妻 あなたは御自分のだけになさればいゝんですわ。めい/\勝手に好きなものを喰べればいゝでせう。
詩人 女はどうしてさう、偏狭なのかなあ。
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この時玄関に御免なさいといふ女の声、妻たつて出て行く。
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妻の声 まあ母さんなの。なんだつて、こんなに早く……あら/\、どうして……ちよつとお上んなさいよ。えゝ、今出かけるとこだわ。
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妻が先に立ち、妻の母が入つて来る。
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夫 (坐りなほし)いらつしやい。御無沙汰してゐます。
母 今ごはんですか。朝つぱらからどうも……実はね……。
妻 まあ、お敷きなさい、母さん。
母 お出かけで忙しいんだらうから、あたしには構はないで……お茶なんかあとでいゝから、お前お給仕をしておあげ。
妻 いゝのよ、勝手に食べさしておけば……あゝこの方ね、うちでそら、お世話してる方なの。鳥羽さんておつしやる詩人の方よ。これあたくしの母……。
母 はじめまして……どうぞ、さあ……。
妻 まあ、こつちへいらつしやい。何んのお話し一体、ゆつくりでいゝでせう。
母 あゝ、そりやもうなんだけど……実は門司の伯父さんね。今危いんだとさ。
妻 危いつて御病気だつたの。
母 それが急のことらしいよ。あたしも一度御見舞に行きたいと思ふんだけど、何しろこんな事情だしね……昨夜《ゆうべ》お前が帰つてから、手紙が来たのさ。(帯の間から手紙を出して見せる)危いつていふもんの、かういふ事が云へるくらゐだから、お前まだ気はたしかなんだよ。とにかくそこに書いてある通り、一人も子供はないし……。
妻 (手紙を読みながら)一寸……いま読んでるんだから……まあ財産を分けて下さるつていふのね。(夫は急に顔をあげて、妻の方を見る)
母 をひや姪つて云つても、うちの兄弟三人きりだからね。姉さんとお前と厚《あつし》に、五万円|宛《づつ》つていふんだらう。
妻 なんだか嘘見たいだわ。
母 全く小説か芝居の筋にでもありさうな話さ。だけど、よくそんなに残したもんだよ。だが、それでゐて、お前不断をごらん。姉さんのときでもお前のときでも、お祝はたつた二円の為替《かはせ》ですよ。
妻 (誰れにともなく)五万円つて云つたら、百円の何倍になるの。
詩人 五千倍でせう。
妻 (夫の方を見て)さうなるかしら。
夫 (わざとそつぽを向き)計算してごらん。
母 どつちにしても、少いお金ぢやありませんね。この娘《こ》も果報者ですよ。
妻 (それとなく夫に)それだけあれば、もう少し陽気に暮せるわね。
詩人 (急いで)エヘン、渋谷さん、もう二十分前ですよ。
夫 それぢや、失礼ですが、僕はこれで……。
妻 でも、まだお話があるかも知れないわ。もう少しいゝでせう。
夫 (立ち上つてから)それもさうだね。今日は一時間ぐらゐ遅れても、いゝにはいゝんだ。
詩人 (これも立ち上り)エヘン/\。(さういひながら夫の背中をつく)
夫 (仕方がなしに歩き出しながら)しかしまあ、僕には関係の少い事だから、お前からよく……。
詩人 (相変らず夫を押しやり)エヘン……エヘン。
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夫、挨拶もそこ/\に玄関に出る。妻の母が送つて出ようとするのを妻が裾をとらへて放さない。
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第三場
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その日の夜、夫と妻が座敷の隅で立話しをしてゐる。
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妻 母さんを信用しない訳ぢやないけど、預つてやるつていふその目的が、あたしには分らないの。
夫 預つてやるつていふんなら、預けておいたらいゝぢやないか。僕がそんなこと口出しは出来ないよ。
妻 だから、それはあたしが云ふからいゝのよ。たゞ、一緒に行つて頂戴つていふの。女一人でそんな大金を受取るの、なんだか心配だし、どうせあたしが貰つたもんなら、あなたと二人のもんですもの。
夫 お前の気持はよく判るよ。だが、お母さんとしちや、僕に使はしたくないんだらう。赤の他人に、甘い汁を吸はせるやうな気がしてるんだよ。
妻 そんな法つてないわ。夫婦なら、どこまでも夫婦ですもの。
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この時、階段を下りてくる足音がするので、二人は慌てゝ外の事をし出す。詩人があらはれる。
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詩人 火種がなくなつちやつた。少し貰つて行きますよ。
妻 そこのを持つてつちやいやですよ。すぐおこるんだから、瓦斯《ガス》でおこしてらつしやい。
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詩人渋々台所へ行く。
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夫 (小説を声高に読みはじめる)「芳町《よしちやう》で幅の利く顔役、弥太《やた》五|郎《らう》源《げん》七が出先から子分に持たせてよこした手紙を見た女房おげんの顔の色がさつと変り……」――それで、今の話しだが、心配なら送り迎へだけしてあげよう。
妻 ずつと門司までよ。
夫 (詩人の方に気を配り、読む)「すぐ近所にゐる主立つた子分数人を呼びよせた」――(妻に)それでもいゝよ。
妻 いつ発《た》ちませう。手紙には、すぐ来いつて書いてあるのよ。(低く)
夫 (読む)「みんな早速来てくれて有難うよ。実は出先から親分がこんなことを云つて来たのだ。さあ見てくれ」――(妻に)明日《あした》でもいゝよ。
妻 着て行く着物は、どれに
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