(それにかまはず)「が、そこに佇《たゝず》むものとては他《ほか》にないから、男ごころをときめかす香りも、伊太郎以外には、たゞ徒《いたづ》らに暗きにたゞよひ、吹き消されるばかり」
詩人 ちよつと、しづかに……。
夫 (暫らく黙読を続けてゐたが、次第に大きな声を立て)……「女はこらへかねて、もしと低くいつて、涙にむせんだ。春ではあるが、月は今夜のやうに冴え返り……」
詩人 わざと邪魔をするんですね。
夫 女に詩なんか読ましたつて、しやうがないですよ。お前も亦わかるやうな風をするから、先生、益々……。
詩人 益々どうしたんです。第一、そいつはエヘンだ。
夫 なにがエヘンです。
詩人 エヘンでせう。あなた方二人のどつちかゞ規約を破つた場合には、僕が「エヘン」といふことになつてる。今のはあきらかに、あなたの規約違反です。「夫婦は、双方の自由意志または家政一般の問題に関し、如何なる場合といへども、助力、干渉、命令、相談、註文等をなさゞること」
夫 いまのは、そのうちのどれに該当しますか?
詩人 干渉、命令、註文の三つも含みます。
夫 むしろ、助力だと思ひます。
妻 賛成!
詩人 え?
妻 賛成つて言ひましたわ。
詩人 誰にですか?
夫 僕にです。
詩人 あなたは黙つて……(妻に)誰にです。
妻 あの人に。
詩人 あの人とは誰です。
妻 そこに眼鏡をかけて本を読んでる人よ。
詩人 本を読んでる人、誰です、あれは。
妻 (面白がつて)渋谷八十一よ。
詩人 (しつつこく)渋谷八十一君とは、あなたのなんです。
妻 明後日《あさつて》からまた、あたしの夫になる人よ。
詩人 よろしい、僕の詩、早く読んで見て下さい。何処まで読みました?
妻 おしまひまで読みましたわ。
詩人 おしまひまで……? うそでせう。あなたも読む風をするだけだな。
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この時、玄関の格子を開き「御免下さい」といふ女の声。
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詩人 あ、鴨子《かもこ》嬢だ。僕の天使だ。僕の詩の唯一の読者《フアン》だ。上り給へ。(出て行つて、若い女の手を引張つて来る)
若い女 (手をついて)今晩は……。
妻 (愛想よく)今晩は、ようこそ……。さ、どうぞ、お二階へ。
若い女 あの、けふは奥様に少しおねがひがあつて、伺ひましたの。
詩人 僕は居たつてかまはないでせう。
若い女 いゝえ、貴方《あなた》がいらしつちやこまるの、秘密のお話だから。
詩人 それぢやあとで、二階へおいでなさい。(詩人二階へ上る)
妻 何んのお話、いつたい?
若い女 あのね、奥様にこんなことお願ひするの、変ですけど、あたしもう困つちやつて……。(あたりに気を配り)聞えやしないかしら……。
妻 大丈夫。ぢや、もつとこつちへいらつしやい。
若い女 (妻の方へにじりより)あたしね、はじめ、鳥羽さんつていふ方、もつと偉い詩人だと思つてましたのよ。ですから、少し崇拝しちやつてたの。お笑ひになつちやいやよ。でも、この頃やつとほんとのことが判つて来たの。それに、あの方時々|家《うち》へなんか入らつしやるでせう。なんどそれは困るつていつても、お判りにならないのよ。父がそのたんびにいやな顔をするんですもの。「ありや何処の乞食だ」なんてあとで言ふのよ。あたし困つちやふの。でも、かう言つちや悪いけど、随分ひどい下駄をはいてらつしやるのよ。
妻 あの下駄でせう。あれしかないんですもの。
若い女 それだけならよござんすけど、家《うち》なんかで、あんまりなれ/\しい口の利《き》きやうをなさるものだから、母でさへ怒つてますわ。
妻 で、つまりあなたのお宅へ伺はないやうに、あたしから言つて呉れつて仰つしやるのね。
若い女 えゝ。それと、あたしも当分伺へないからつて、直接ぢや又、うるさうござんすから、これも奥様から……。
妻 やれ/\、大変な役目ね。
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詩人階段の上から半身をあらはし、
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詩人 まだですか。
妻 まだよ。
詩人 鴨《かも》ちやん。いゝかげんに話を切りあげて、こつちへいらつしやい。
妻 そんなとこから顔を出すもんぢやありませんよ。(詩人引込む)
若い女 あたし、あの方の顔を見るのも、なんだかこはくなつて来たわ。
妻 (夫の方に行き)ねえ、貴方《あなた》、お聞きになつて……鴨子さんのお話。
夫 あらまし聞いたよ。
妻 どうしたもんでせう?
夫 相談かい、相談なら規約によつて、御免蒙るよ。
妻 そんな戯談は兎に角として、あたし達がそんなこと言つたら却つて怒りやしないか
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