しようかしら……。
詩人  (台所から顔を出し)エヘン。(妻急いで、長火鉢の鉄瓶をおろす)
夫  (読む)「短い文句の手紙を、子分達は寄り合つて読んで見ると……」

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その間に、詩人が十能を持つて現はれる。
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詩人  奥さん、ねえ、友人の奥さんとしてお願ひするんです。蒲団の裏が段々|綻《ほころ》びて来て、綿がはみ出して来ましたよ。あいつを今晩は是非……。
妻  友人の奥さんなんて、あなたの友人つていふのは、誰なんですの。
詩人  この人さ。あなたの旦那さんさ。
妻  そんな人の存在は、あたし認めませんよ。
詩人  さうか、そいぢや奥さんが、直接僕の友人ならどうです。
妻  男の友人なんか真平《まつぴら》です。
詩人  御主人が聞いたら、さぞよろこばれるでせう。もつとも、そこで聞いてるから云ふんだらうが……。
夫  (また読み始める)「上州無宿者の名草《なぐさ》の伊太郎《いたらう》が暗きを選《よ》つて、そつと歩いてゐる。右へ行けば九十六間の両国橋、左へ行つて、船蔵前《ふなくらまへ》の川にかけられた百八間の新大橋」

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詩人は、ぢつとそれを聴いてゐるが、ふと妻の方に近づき、やゝ小声で、
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詩人  今日旅で作つた詩を一つ読んで下さい。あとで清書してもつて来ますから。(さういつて階上へ上る)
夫  (読みつゞける)「川面《かはづら》を撫でて吹きわたる風に、襟許のうすらつめたさを気にする人も絶えてない夜更《よふけ》に、ぽつり/\と二つの人影が寄りそうて、ピツタリ一つになつて行く」(妻に)蒲団のほころびを直してやれよ。
妻  いゝんですよ。寝方が乱暴なんだから……。
夫  (読みながら)「そこは、星はあれど地上はくらい河岸《かし》通り、船蔵前から水戸家石置場と、二人が一つに相寄つた黒い影は、まさに男と女」……片道いくらかゝるかな。行きは三等として。
妻  (夫の傍へにじり寄り)ねえ貴方《あなた》。あなた、今度そのお金がはひつたら、もう少しどうかした家へ引越しませうよ。広くなくつてもいゝから、お風呂場ぐらゐあつてね。
夫  それもいゝが、第一理想的な世帯休業がして見たいな。お前だつて小遣ひが十分なら、三日や四日で、おれのそばへ舞戻つて来る気はしまいしね。
妻  お母さんとこも、せい/″\二日ね、三日からはもうお客さんぢやなくなるんですもの。
夫  それがさ、実家《さと》がいやんなつたら、此所《こゝ》へ帰つて来なけれやならんといふ法はあるまい。同じ家で顔をつき合はせてゐるんぢや。いくら規約を作つたつて、完全な世帯休業が出来ないよ。おれは、まあかうして居てもいゝが、お前は温泉へ行くなりさ、友達を誘つて毎日芝居や活動へ出かけるつて云ふんなら、一週間ぐらゐ夢のやうにたつだらう。
妻  一週間ぢや、物たりないくらゐだわ。
夫  さうさ、おれの方でも亦それなら自由行動のとり方もある。会社から直様《すぐさま》こゝへ帰つて来なくつても、いくらだつて寄り道は出来るからね。一時、二時まで外にゐるつてことは、こいつ懐中《ふところ》十分でないと相当骨が折れる。
妻  だつてお金があれば、何も世帯休業なんてする必要はないんだわ。お互に気まづい思ひをしなくてもすむんですもの。
夫  いや、さうはいかん。それとこれとは別だ。とにかく、しばらく夫婦といふ名分から放れるといふことが、永い夫婦生活の間の息ぬきとして、誰にでも必要なんだ。
妻  でも、お金があれば、変化のある生活が出来るぢやないの……楽しみだつて、ふえるし。
夫  お前の愚痴も減るし。
妻  さうだわ、お金が入つたら、真先にどつか海岸へ行きませうよ。あたし、ホテル生活がして見たいわ。
夫  お前は勝手にさうするさ。独りでさびしかつたら、適当な相手を連れて行くんだね。
妻  まあ、それで貴方《あなた》は貴方で、適当な相手を引張り込まうて言ふの。
夫  まあその辺は、まかせといてもらはう。
妻  いゝわね、だけど、お金が入るつてことは、何も彼も新らしくなるつて気がするわ。あなたさういふ気持なさらない?
夫  おれはまだ、なんにもいふ資格はない。まあよろしくやつてくれ。

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また詩人が降りて来る。原稿紙をもつてゐる。
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夫  (知らん顔をして)「もし、この女の鬢《びん》を吹く風しもにゐたら、白粉《おしろい》のぷんとしたかをり、髪の油のなまめかしさで、まだ年の若いのが判断されたゞらう」
詩人  (妻のそばに坐り)これです。短いもんです。
夫 
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