ルリンに於ける日本留学生の金使ひについて聞かされてゐるのだ。
僕はある日、馬車を駆つて、この古い町を一周した。道ばたにたたずんでゐる一人の老人に、何か見ておくべきものがあるかと尋ねた。
すると、その老人は、自分で案内をしようといひだした。僕はその老人と並んで、馬車の揺れ方を気にしながら、それからそれへと話を交へた。
この老人は、この町に古く住む外科医であることがわかつた。よく見ると、彼は、オオスタリイの兵隊服を著てゐる。途中で昼になつた。食事をした。ドクトル・Sは、馬鈴薯のソオテと、卵の半熟しか食はない。
この医者の紹介で、やはりこの町に住む一人の学者を識つた。ドクトル・Fは哲学者である。リウマチで、寝たり起きたりしてゐるといふことである。この訪ふものもない隠退所は、白髪の老哲学者をして倦怠の限りを味はせたに違ひない。彼はフランス文学に明るかつた。日本の政治的地位について、明確な知識をもつてゐた。彼は米国を罵り、支那を讃美した。そして、ユダヤ人の恐るべきを説いた。僕をここに連れて来たドクトル・Sは、その民族に属してゐることを教へた。そして、彼自身は? 僕は、問はずして、彼が純粋のイタリイ人であることを知つてゐた。なぜなら、彼のすべてが、ラテンだ。彼のリベラリズムは、かの、「鳥料理レエヌ・ペドオク」の主人公、アベ・コワニヤアルを想はせた。
★
何かの話から、ホテルのサロンは、今、柔道について論じ合つてゐる。
一人のロシヤ婦人――それは、横浜に二年間ゐたといふ女――は日本人のすべてが柔道を心得てをり、指一本で相手を投げ倒すのだと主張してゐる。
日本人尽くがさうであるとは信じられないが、少くとも軍人は柔道の達人であるに相違ない。M少佐はもちろん、その通訳も、多分、ああ見えてもやることはやるんだらう――これは、そのロシヤ婦人の傍を片時も離れない禿頭のルウマニヤ人である。
指一本で投げ倒されてたまるものか。両手でかかつて来ても、俺なら大丈夫、あべこべに奴等の一人や二人、ねぢ伏せて見せる。かういひながら、腕を差しだしてゐるのが、例のイタリイ士官だ。
僕は、その時丁度、その前を通りかかつた。
「ムツスイウ・K、一寸、ここへいらつしやい」
「なんですか」と、生返事をして、空いてゐる椅子に腰をおろした。
「さあ、僕のこの腕を、君の柔道でねぢつて見たまへ」マカロニイは、婦人たちの前で見得を切つた。
「折れてもいいか」僕は笑ひながら訊いた。
「およしなさい、危ないから」ロシヤ婦人は慌てて留めた。
「そんなら、かうしてゐるから、どつちからでも押して見給へ。君の力で僕の身体が動いたら、どこででもお目にかかる」
さういつて起ち上つた。
僕は片手をその胸に当てて、ぐいと突く真似をして、その拍子に、うしろから、一本の指で、腰のあたりをひよい[#「ひよい」に傍点]と押した。ドツと女たちが笑つた。大尉は、両手を差しだして泳ぐやうに前へつん[#「つん」に傍点]のめつた。
★
僕は昔、幼年学校にゐる頃、ドイツ大使館付武官の紹介で、オオグスブルグのカデツテン・シユウレにゐる一カデツト・Wと文通を始めたことがある。この文通は、僕が士官学校を卒業する頃まで続いてゐた。その頃Wも学校を出て、同じ地方の砲兵連隊に配属されたことを知つてゐた。
欧洲戦争が始まつた。
彼の生死は全く分らなかつた。
僕はイインスブルグからミユンヘンへの旅を思ひ立ち、ドイツにおけるただ一人の知人が、あの戦争でどうなつたか、それも序に調べられたらと、ある日、ミュンヘンの日本名誉領事館を訪ねた。
領事は早速、オオグスブルグの砲兵旅団司令部にWの消息を問ひ合はせてくれた。その結果W中尉は、休戦になる前に、病気で軍籍を退いたが、今、やはりオオグスブルグに住んでゐるといふことがわかつた。それだけわかれば、あとはなんでもない。詳しい住所を警察で調べてもらつて、取り敢ず「会ひたい」といふ電報を打つた。返事はすぐ来た。
翌日、僕は、オオグスブルグ行の汽車に乗つた。
停車場に出迎へてくれるはずのWは、どんな男だらう。彼がかつて送つて寄越した写真は、どこかへ蔵つてあるはずだが……。汽車が着くと、僕はプラツトフオオムを見廻した。
曇つた、薄ら寒い日だつた。
汽車から降りるものも、乗るものも、みな疲れてゐるやうに見えた。
そのなかで、一人、目立つて血色の悪い男が、外套を著た肩をすぼめながら僕の方に近づいて来た。
二人は暫く顔を見合つてゐた。だんだんわかりだした。それが彼だつた。
しかし、この時、僕は確かに彼よりもにこにこ[#「にこにこ」に傍点]してゐた。といふよりも、彼は存外無愛想に僕の手を握つた。二人は、黙つて歩きだした。白状をすると、
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