。
もつとも、こんな話がある。僕が南仏の旅行をして、ニイスの近くに差しかゝつた時だ。同じ汽車に、フランスの中尉が乗つてゐて、僕にいろいろ東洋の話をもちかける。いい加減にあしらつてゐると、
「君は支那人に珍しく、ひげを生やしてゐるね」とやつたものだ。なるほど、支那人にはひげは珍しいが、僕のひげは日本人のひげだ。面倒臭いから、にやにや笑つてゐてやると、奴さん、図に乗つて、
「君は北京か、広東か」
「どつちでもない。おれはトウケウだ」
「トウケウ、トンキンか」
「日本の東京だよ」
「君は日本人か」
「当り前さ」
「そんなはずはない」
「なけりや、勝手にし給へ」
僕の権幕に、ややたぢろいで、それでもあきらめ兼ねたらしく、
「それぢや、君の両親のどつちかが、支那人だらう」
「…………」
「僕は東洋の植民地に永く勤務してゐたので、東洋人の骨格はちやんとわかる。支那人、日本人、安南人、みんなちがつてゐる」
「なるほど。それで、僕の骨格が支那人だといふんだね」
「疑ひの余地なし」
折角さう信じてゐるものを、証拠まで見せて失望させるにも当らないと思つたが、僕はカバンの裏に張つてある日本大使館のマアクを指して、組んだ脚の爪先を動かしてゐてやつた。然し、僕は、内心、ひよつとすると、先祖に帰化人があるんではないかと思つた。
序だが、ある女から「お前は支那人か」といはれ、味気なくなつて、そのまま帰つて来た日本人がある。同じ女が、別の機会にそれとよく似た男をつかまへ、今度は「お前は日本人だらう」といつて見た。するとその男は、こぶしを固めて、女の下つ腹を突いたさうだ。
話がわき道にそれたが――
その、どこからともなく現はれて、僕のそばへ寄つて来た男に、
「君は支那人でせう」と訊かれ、平然と僕は答へた。
「さうだ」
「僕は貴国の聖人を知つてゐます」
「孔子《コンフシウス》だらう」
「さやう」と、この男は、眼をギヨロリと光らした。
「貴国の方は、それにみんな詩人ださうですね」
「さうでもない」
「僕は、貴国の留学生を二三人識つてゐます。名前は忘れたが、いづれも極めて愛すべき人達でした」
やや生硬なフランス語だが、なか/\達者だ。こつちが黙つてゐるので、
「僕は、ポオランド人です。学生です。貧乏な学生です。苦学をしてゐるのです。自分でパンを得なければならないんです」
「僕もさうだ」
「然し、君は、政府から補助があるんでせう。いくらもらつてゐるんですか」
「一文ももらつてやしない」
「ほんとですか。しかし、レストランで食事ができるんでせう、毎晩」
「できることもあり、できないこともある」
「僕は、昨日から、飲まず、食はずです」
「おれは、明日から飲まず食はずだ」
「冗談でせう。君は時計をもつてゐますね」
「君は服を著てゐる」
「…………」
「君はまだおしやべりができる。おれは、今、ものをいふことさへいやなんだ。あつちへ行つてくれ」
「僕は、一昨日まで、写字と翻訳をやつてゐたんです。写字は一行一|文《スウ》、翻訳は一行二|文《スウ》です。それでやつとパンにありつけるのです。それさへ、もう、だれも仕事をくれないんです」
僕は、その言葉を聞き流して、ベンチを離れた。パリには、到るところ、かういふ手合がゐて、東洋の君子に目をつけてゐるらしい。
★
その広い部屋は、イタリイの新領土、南部チロルの山の中にあるホテルのサロンだ。メラノといふ小さな避暑地だ。同時に避寒地だ。まあ、日本なら熱海といふところだが、それが海岸でなく、山の中だ。
隅の方で、こそこそ話をしてゐる一組の男女、男はイタリイ士官で、女はハンガリイ技師の細君、御亭主は、一週間ばかり前に、会社の用事か何かで本国へ帰つてゐる。
ひとり、ミルク入りコオヒイを飲みながら、新聞の為替欄を読みふけつてゐるのが、昨日、ブタペストから寄り道をして来た日本の某名士と、その秘書である。
墺伊国境劃定委員長たる仏国陸軍中佐Rは、その細君と子供とを引きつれて、今、アヂヂ河岸のプロムナアドへ、軍楽隊の演奏を聴きに出かけようとしてゐる。
同じく墺国側の委員Z中佐は、誰かと丸テエブルをはさんで、シユニツツラアを論じてゐる。
イタリイ委員P大佐、これは、決してサロンに姿を現はさない。夕食が済むと部屋に閉ぢこもつて、明日の会議に持ちだす修正案の稿を練つてゐる。
英国のK中佐は、書記に命じて、翌朝の林檎を買はせる。
日本委員M少佐は、ロシヤ人だといふ母娘に、明日午後のドライヴを約束してゐる。
こつちでは、ホテルの支配人がイタリイ語で、盛装の婦人に何かお愛想を云つてゐる。この婦人はブカレストの女優T嬢だといふ噂である。
そして、僕はベルリンで一流のレストランを経営してゐるといふユダヤ人K氏から、ベ
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