僕はもうこの時、旧友にめぐり遇つたといふやうな興奮状態からさめてゐた。
 彼は多分毒ガスにやられたのだ。彼は、まだ耳の奥で、大砲の音が聞えるといひだすのだ。彼は時々、頭を抱へて空を仰いだ。
 僕が案内されたのは、彼が若い細君と共に住まつてゐる、可なり上品なアパアトメントだ。細君は、予て話を聞いてゐたものとみえ、いそいそとこの遠来の珍客をもてなした。
 燈がつく頃から、Wは急にしやべりだした。その昔、僕が彼に送つた手紙に、こんなことが書いてあつたといふやうな、僕がもうとつくに忘れてしまつてゐる事柄を、さも愉快さうに思ひだしては、話し話しした。
「へえ、君も軍人をやめたんですか。僕はまた、あの手紙に書いてあつた通り、フランスの大使館付武官になつて、ヨオロツパに来られたんだとばかり思つてゐましたよ」

「なんにもございませんが……」
 といふことで、食堂に導かれた。草花が食卓を明るく飾り、銀製の古風な食器が、彼等の家柄を思はせた。
 最初に型の如くオオル・ドウウヴル。これがまたなかなか凝つたものだ。その上、三人前としては、驚くべき分量だ。ドイツ人は大食だと聞いてゐたが、これはすこしどうかしてゐる。
「どうぞ、お取り下さい。もつと沢山お取り下さい」
 Wは盛んにフオオクを動かしてゐる。細君も、なか/\達者だ。
「ちつとも召上りませんね。こんなもので、お口に合ひますまいけれど……」
「いいえ、飛んでもない……」
 僕が、どうしてもお代りをしないので、細君は、主人公の方へ、一寸合図らしい眼付をしながら、さもいひだし悪くさうに、
「でも、あの、御馳走は、もうこれだけなんでございますよ。あとはお菓子しか差しあげられませんの」
 主人公は、これも、やや極りわるげに、
「さうさう、君はまだドイツの現状を御存じないんですね。肉がないんですよ。今日は殊に、なんにも手にはいらなかつたんです」
「ほんとにねえ、折角いらつしつて頂いて、これぢやあんまりですわ。ね。でも、こちらは、これが当り前なもんですから……」
「さうでしたか。そんなら……」
 といつて、またオオル・ドウウヴルに手をだしかね、さうかといつて、「いや、それは万々承知してゐます」と鷹揚に辞退するためには、あんまり腹が空いてゐるんだ。
          ★
 君は、フランスの前大統領デシヤネルが、寝間着姿で鉄道線路の上を這つてゐたといふ話を知つてゐるかね。線路巡視がそれを見つけて、いろいろ調べて見ると、「おれは大統領デシヤネルだ」といつて威張るもんだから、テツキリ狂人だと思つて交番に渡したといふ話だが、それはほんとなんだよ。なに、公用でどこかへゆく途中、寝台車から抛りだされたまでのことさ。デシヤネルを「出車寝」と書いてもよささうだなんていつた奴がゐる。
 これと何も関係はないが、これ以上喜劇的な場面を、フランス人といふ奴は日常平気で創作してゐるんだ。
          ★
 それは、ある町医の診察室だ。何かの注射を受けに来た患者が、手術台の上に腹ばひになつて、尻をだしてゐる。
 医者は、注射器を手に持つてその尻を撫で廻してゐる。
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医者 さう力をいれないで……。
患者 然し、先生、どこへやるんだか、はつきりおつしやつて下さい。その部分だけ力を抜いてゐればいいんでせう。
医者 この辺かな。(指で押す)
患者 その辺だとすると……。(片一方の尻つぺただけやはらかくしようと努力する)あいちツ。(もう針が刺さつてゐる)
医者 動かずに……。ぢつとして……。(注射液を徐々に押し込む)痛くはないでせう。
患者 痛いです。
女の声 (奥で)アルマン、ぢや、一寸行つてくるわよ。
医者 もう出かけるのか。それぢやね……。(患者に)一寸失敬……。(戸口に近寄り、戸から外へ首を突きだし)なんだ、その荷物は……。
女の声 帽子ができて来たんだけれど、飾の花が気にいらないから、取換へにゆくの。だつて、二た目とは見られないやうな赤いばらよ。
医者 赤いばらだつていいぢやないか。それぢや、今度はなんにするつもりだい。
女の声 なんか、もつと、あつさりした、似合ふものにするわ。
医者 (声を低くし)ぢや、帰りに、マルタンのところへ寄るだらう。
女の声 時間があつたらよ。
医者 どこか、まだ寄るところがあるのか。
患者 (苦しさうに)先生。
医者 いますぐ……。それで、どこへ寄るの。
女の声 いいとこ。
医者 (ぢれて)兎に角、マルタンのところへ行つたらね、今夜、勝負をするからつていつてくれ。
患者 (益々苦しさうに)先生、大丈夫ですか。なんだか、針が折れたやうです。
医者 (一寸振り返つて見て、それには答へず)遅くなると承知しないよ。おい、………(キツスの音)
患者 (泣きだしさ
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