うになり)痛いです、先生……。
医者 (やうやく元の位置に復し)まだ半分もはひりませんよ。
[#ここで字下げ終わり]
          ★
 僕はマルセイユから、フランスMM会社の汽船ポルトスに乗つた。
 一等船客としては、某国の侯爵が愛妻の遺骨を護つて帰朝の途にある。
 二等船客として、S銀行の行員Xが、時々甲板の手すりに矮躯をもたせかけてゐる。
 三等船客の僕は、同室のギリシャ商人がのべつに歌ふ鼻唄にごう[#「ごう」に傍点]を煮やし、お歯黒をつけた安南の美女に、果敢ない想ひを寄せてゐた。
 支那学生の一団が、常に甲板の一隅で議論を戦はしてゐる。
 植民地ゆきの軍曹夫婦が、腕を組んで食後の散歩をする。
 ポオトセエドで船を下りたアラビヤ人は、絶えず呪文を唱へてゐるやうに見えた。
 僕は甲板に出るごとに、予備大佐と自称するルウマニヤの綿布商人につかまつた。彼は日本の官憲が、小国の人民に対して横柄であり、大国の人民に対して慇懃を極めてゐる態度に憤慨した。ヨオロツパのいはゆる小国間に、日本の勢望が頓に失はれつつあることを説いた。彼はまた、世界の人肉市場について驚くべき博識を披瀝した。彼は、船客の誰彼を相手にポオカアの勝負をいどみ、もの凄い腕並みを見せた。彼は、寄港地の到るところに「行きつけの穴」をもつてゐた。
 船が上海を出るといふ朝である。この男は上陸したまま帰つて来なかつた。彼の手荷物を陸に残して、船は碇を巻いた。

 支那留学生の一団は、僕がその傍を通ると、一斉にこつちを見た。それは明かに敵意を示す眼だ。僕はかういふ時、わざわざ口辺に微笑をたたへて、その一人々々の顔を見返してゐた。――かういふ状態が二週間あまり続いた。
 船がアフリカ西海岸のヂブチイに着いた。はしけ[#「はしけ」に傍点]の数が足りないので、上陸をするために、僕は彼等と同じはしけに便乗した。すると、船頭の黒人君、相手与し易しと見てとつたか、岸まではまだ半分と思ふ頃、不意に漕ぐ手を止めて、賃金割増を要求しだした。
 一同は途方に暮れて顔を見合はせた。唯一人の日本人たる僕は、別に相談には与らなかつたが、彼等の視線は、たしかに僕の協力を求めてゐる。彼等は口々に――意味はさつぱりわからぬが――多分「顔が黄色いと思つて甘く見るな」とか、「馬鹿いへ、警官に訴へるぞ」とか、「愚図々々せずに早くやれ」とか、「相共に抱いて海に投ぜん」とか云つてゐるのであらう。
 黒人君は黒人君で、白い歯をむきだし、いはゆる「プチ・ネエグル」で、「あとこれだけ……」と指を三本見せ、さもなければ、今度は手真似で、「船をこがぬ」と云ひ張つてゐる。
 本船は明日の朝の出帆である。急ぐことはない。これからこの日光と砂の国に上陸したところで、水瓶を腰にかかへた赤銅色の女を見るだけの話である。それよりもこの黒と黄との争ひが、これからどう発展するか見てゐたい。
 この時である。傍に座を占めてゐた彼等のうちの一人は、はじめて僕に話しかけた。―― Quel sale type !(なんといふ汚ない奴でせう!)
 僕は眼でそれに応へた。
 たうとう増金をだすことになつて、船は岸に着いた。
 僕はいつの間にか、彼等の一行中に加はつてゐた。
 最初船の中で僕に話しかけたのは、パリで医学を修めたといふC君である。
 次に僕に話しかけたのは、アメリカで政治経済をやつたといふK君である。
 その次は、フランスの女を連れてゐるL君、これはパリで支那料理の店をだしてゐる人である。
 それからもう一人は、画家のS君、嘗て日本の美術学校にもゐたといふ変り種だ。
 親日派と、排日派とに分れてゐるわけでもあるまいが、最後まで口を利かない幾人かがゐるにはゐた。――それすら、いよいよ上海で、僕のために別宴を張るといふ晩、快く食卓についてくれた。
 医学士のC君は、一見茫漠として捉へどころのない、そのくせ議論がたまたま東洋精神といふやうな問題になると、顔面朱を注ぎ、口角泡をとばして相手を悩ますのである。
 政治経済のK君は、もう、大学教授兼新聞記者といふ肩書をもつてゐるだけに、沈痛な口調で、冷徹な批評を、あらゆる問題の上に加へた。殊に日本の外交をめちやめちやに罵倒した。日米戦争は当然起るべきこと、その場合、支那は勢ひ米国に加担すべきこと、さうなると、日本は支那の海軍を軽蔑して、一挙にヒリツピンを占領すべきこと、すると支那は、ヒリツピンと日本本国との連絡を遮断して、米国艦隊の東京湾攻撃を容易ならしむべきこと、等々、彼は流暢な英語でまくしたて、僕がそれを黙つて聴いてゐると、眼界千里の海上には、音もなく夜がくるのである。
          ★
 仏国郵船会社の巨船ポルトス号は、一乗客たる某国侯爵家の要求を容れて、神戸入港の時間をわざわざ三時間遅
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