上海で戦死した友田恭助君
岸田國士
友田君の初舞台は新劇協会だが築地小劇場が出来て其メムバーになつたのが大体新劇俳優としてのハツキリした出発点である。友田君の存在が新劇界で重要なものになつたのは小劇場の分裂に際して左翼的傾向と対立的な側の一代表者になつたときからだと思ふ。ただ左翼劇全盛時代に彼としては自分の立場に立つて仕事をすることに色々悩みや困難があつたと思ふがそれが偶々自分で築地座を起すやうになつてから仕事の目標も非常にハツキリして俳優として他の新劇俳優と全く異つた、僕等からみればオーソドツクスの訓練に身を入れ出して着々効果が現はれ出した。その為に最近では新劇に於ける最も技術の勝れた俳優といふ定評を得るやうになつた。
友田君の今日までの仕事のうちで我々の記憶に残つてゐるものとしては築地小劇場時代に「愛慾」の傴僂の夫と「どん底」の男爵などが思ひ出されるが、不思議なことに久保田(万太郎)氏の物となると決してミスしたことがない。先づ「大寺学校」の校長や最近では「釣堀にて」の老人などその芸は完璧といつてもいゝだらう。築地座を止める約一年位前から非常な飛躍を芸の上に見せてきて、「にんじ
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