小山内君の戯曲論
――実は芸術論――
岸田國士

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)例《ためし》
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「……私は、此の牢屋のやうな暗い処で蠢いてゐる人間のために一つの窓を明けて、人間の貴さを見せてやる、それが芸術家の仕事ではないかと思つてゐる。真暗な牢屋の壁に一つの穴をあけて、明るい世の中を見せる。そこでは人間が獣でもなければ、神様でもない、人間は人間であつて同時に超人である。私はそれを見せて貰ひたい」
「私の標準は甚だ狭いかも知れない。人道主義的だと云はれるかも知れない。けれども、若し劇といふものが、単に芸術家の為めにのみ存在するものでなく好事家の為めにのみ存在するものでなく、一般公衆のために存在するものであつて、一般公衆の意志に力を与へ感情を浄化するのが目的であるとしたならば、さういふ脚本でなければ価値はないと思ふ」
 それが小山内君の都紙上九月雑誌戯曲評のうちで漏らされた戯曲論の一節である。
 小山内君が、独りでさう思はれることは御勝手である。さういふ物差で他人の作品を計り、これは尺足らずだと云はれるのも御勝手である。然し、何も、それが意外のことのやうに驚かれるには当らないと思ふ。
 汁粉屋にはひつて、鰻を注文し、お生憎さまと云はれて、汁粉屋の不都合でゝもあるかのやうな驚き方をされては、汁粉屋たるもの、恐縮どころか、却つて、驚くであらう。

 小山内君の戯曲論を――実は芸術論を、今更反駁するのは気がひけるが――たゞ、念の為め、これだけのことは云つて置きたい。
 劇に限らず、一切の芸術は、理想として一般公衆の為めに存在するといふ議論は、あんまりわかりきつた議論である。
 然し、いくら一般公衆の為めにものされた芸術品でも、彼らの或るものには興味があり、或るものには興味が無い――さういふものがある。興味が無いといふ理由――それは様々あらう。然し、或る芸術的作品に対し、それがわからないで興味のもてない人間よりも、それがわかつてゐながら、それ以上のものを求める人間の方に、誰しも敬意を払ふに違ひない。芸術家の目ざす相手は、正に、かくの如き公衆でなければならない。
 これだけのことがわかつてゐれば、どんな小数者の為めの芸術も立派に存在の理由があるではないか。
 現に小山内君らの経営される築地小劇場は天下幾人のために存在してゐるか。それでなほ且
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