ジャック・グランジュは、かのサント・ブウヴのなしたるが如く、往々芸術の観点から人を見ずして、歴史の領域に足を踏み込んでゐる。
プルウスト だから…………。
グランジュ うん、だから、そこがこの本の興味だと、君は云つてゐる。しかも、その程度は、サント・ブウヴ程極端ではないとも云つてゐる。が、そこだ。我輩が忠実な印象を私心なく書き止めたところを、君は、この本の中で、最も、気にかゝる部分だと指摘してゐる。恐らく、君のことを書いた頁の中にも、さういふところがあつたに違ひない。
プルウスト …………。
グランジュ あ、この本には、君のことは書かなかつた。これは、我輩の礼儀だ。しかし、恐らく、我輩が何時か君のことを書くだらうと思つて、一層、その点に神経が働いたのだ。
プルウスト (はじめて微笑する)
グランジュ それなら、安心し給へ。君が中学時代に、よく仲間を集めて演説みたいなことをやつてゐた、その時の口調やよく使ふ形容詞を我輩は覚えてゐるのだが、そんなことを書くと、君は怒るかね。それから、君が一番仲よしだつた、あの女の子、…………あゝ、あのことは、君がもう小説に書いたつけな。(間)うん、さうだ。サント・ブウヴの話が、まだ残つてゐた。なるほど、彼が、同時代の作家に対して、公平な評価を下し得なかつたことは、返す返すも遺憾なことに違ひないが、「月曜閑談」は依然として仏蘭西文学の珍宝だ。それがために、われわれは却つて、十九世紀を識り得るのだ。我輩如きが、如何に、モネエをこき卸しても、君がこの序文の中で、一言、おれはジャックの意見に反対だ、モネエの中には、マネエの傑作に匹敵するものがあると云へば、後世は、それを信じるのだ。だがね、マルセル、我輩は、美術評なんていふものを信じてはゐないよ。我輩はたゞ、自分の眼で見たものを、そのまゝ描かうとする肖像画家だ。ねえ、こいつはどうだらう、かういふ事実は、三十年後の人間に多少興味はないだらうか。――大家アンリ・マチスがだよ、千九百二十年の二月二日に、オペラの舞台の上で、背広に金縁眼鏡といふ恰好で、多勢の踊子と舞踊教師に手を引かれ正体もなく肩をゆすぶつてゐたことだ。自分自身恃むところのある人間といふものは、誰が見ても美しいものだ。君には、それがわからんのだらう。
プルウスト …………。
グランジュ 我輩の眼には、君が、たゞ美しいのだ。偉大なのだ。君が、何を書いてくれても、我輩には、たゞうれしい筈なのだ。事実、この通り感謝してゐる。今度のことで思ひ出すのは、君が我輩のモデルになつてくれ、昼になると、我輩の家の食堂で、よく一緒に飯を食つた事だ。飯を食ひながら、二人は議論を闘はした。君が声を張り上げると、我輩は、それの二倍ほどの声で応戦した。そばから、親爺がかう云つたもんだ。――おい、ジャッコ、マルセルを興奮さしちやいかん、奴さん、本気で悪口を云つてるんぢやない。お前をからかつてるんぢやないか。まあ、冷たい水でも一杯飲め。ゆつくり、一口づゝ飲むんだ。百云ふ間に飲め!
プルウスト (微笑する)
グランジュ 笑つてるが、それはほんとだ。君の恐ろしい分析の力で、僕の心の底を掘り下げてみてくれ。そして、同時に、君の感情の網を引裂いてみせてくれ。サント・ブウヴの轍を踏んだのは、我輩でなくて、寧ろ君ぢやないか。「今や、一つの流行を作つた」と称せられる我輩の肖像画は、いまだに、何処の家でも明るい場所へ掛け替へられたといふ話を聞かないのだ。マルセル・プルウストは、一九二〇年代の美術界を、どの孔からのぞいてゐたのだと、後世の批評家は疑ふだらうよ。いや、もう、こんなことを云ふつもりはなかつたのだ。我輩は、たゞ最後に、凡そ趣味を解する人間が、自分の名を傍らに、別の名が並んでゐることを至極気にするものだといふこと、その点、我輩は、甚だ君のために心を痛めてゐることを告白する。しかし、それは、もう取り返しがつかない。また、取返しをつけたくない。この序文が出来上るまで、君が度々くれた手紙に、僕が度々返事を書いた、あれだけで、僕の気持はわかつてくれると思ふ。辞退すべきものを辞退しなかつた理由も、君の友情を信じ、我輩の過を二重にしたくない、たゞそれだけだ。しかし、全世界のプルウスト党は、この我輩の難題によつて、少くとも二つの「文字で書かれた見事な肖像」を君の頁の中に加へることが出来たのだ。一つは君のお父さんの肖像、一つは我輩の親爺のそれだ。たゞ、我輩に罪がありとすれば、それこそ、君の嫌ひな皮肉――その皮肉に満ちた自画像を君に描かせたことだ。
プルウスト (苦笑する)
グランジュ どういふわけだか、そこで我輩の名を故ら書いてないが、あの話は、全く思ひ出しても可笑しいね。アルマ行の乗合馬車で一緒になつた話さ。君はしかも、燕尾服だぞ。君の家には立派な馬車があつて、何処へ行くのにも大概それに乗つて出たものだ。それが、あの服装で、乗合だ。我輩、不思議に思つて、何処へ行くと訊ねたら、君は、妙に照れた顔をして、舞踏会だといふ。益々可笑しいと思つて、何処のつて訊くと、君は、ワグラムの舞踏会だつていふぢやないか。当時ワグラムの舞踏会つて云へば、大家の下男下女が、月一度の休みに開くワグラム軒のあれ[#「あれ」に傍点]ぢやないか。我輩は、驚いたが、また君のことだから、そんな酔狂をやるんだなと思つて、そんなら、もつと威張つて行け、招待されたやうな神妙な顔附は止したらいゝだらうなんて揶揄つた。すると、後で知れたんだが、ワグラム公爵夫人の夜会に行くところだつたんだつてね。家の馬車が、満員で、君一人乗合でやらされた、それを君は、大いに悄気てゐたわけだつた。我輩は、それをまた手柄顔に吹聴して歩いたもんだ。ハヽヽヽヽ。君は、そのことを、人事のやうに突つ放して書いてる。
プルウスト 今書けば、どうせ人事さ。
グランジュ だが、実際、君には、うつかりしたことは云へないよ。あれはどうだ、あれはもう人事かね。君が、あの処女作の沸きかへるやうな評判の中で、毎日、ヨカナアンのやうに憂鬱な顔をしてゐた頃だ。我輩の顔をみると、いきなり、かう云つたもんだ。――ねえ、君、僕のところへ、もう何通、いろんな奴から手紙が来たと思ふ。八百七十通だよ。それから、ポオル・モオランといふ男が、讃歌を作つて寄越したよ。新聞や雑誌の批評は碌に見ないが、目についたやつは腹の立つことばかり書いてある…………。我輩が、それや、味方もあれば敵もあるさ、かういふと、なに、みんな味方面はしてるんだ。ところが、その味方面が癪にさはるんだ。そこで、我輩は、なんて云つたか覚えてるかい?
プルウスト (笑つてゐる)
グランジュ ――まあ、さう怒るなよ。また親爺が、当分絶対安静を宣告するぜつてだ。君は、昔から、正しいといふことに対して、百合の花のやうに無垢な考へ方をしてゐた。そんなことは、片眼鏡式外交官的心理小説家などに解る筈はない。ねえ、おい、マルセル、我輩は、君に、毎日でも会ひたかつたんだ。みんなが君に会ひたがつてゐるやうに、我輩も会ひたかつた。今だから云ふが、もう十年も前のこと、一度、こんなことがあつたよ。君を例のオッスマン通りの家へ訪ねたんだ。門番の奴が――プルウストさんは、今、ストラウス夫人のお邸へおいでになつてゐます。そこで、また、イエナの広場へ引返した。今度は、――たつた今、レジャンヌ夫人の楽屋へいらつしやいました。その足で巴里座の楽屋さ。はひらうとすると、ポルト・リシュとエルヴュが廊下にはみ出してゐる。ミルボオの声だけが部屋の中から聞えるんだ。我輩は、諦めて、君が、恐らく帰り途に寄るだらうと思つたセレスト嬢のサロンへ腰を据ゑたんだ。待てど暮せど君の姿は見えない。その時のセレスト嬢は、我輩の失望を、どう云つて慰めてくれたと思ふ。
プルウスト …………。
グランジュ かう云つて慰めてくれた。――あの人は、レジャンヌ夫人と二人きりになるまで帰りはしませんよ。そして、取つて置きのフィイヌを一本あけてくれたよ。
プルウスト (目の前の書物を取り上げ、また、頁を繰りはじめる)君、済まないが、そこに紙切ナイフがあるから取つてくれ給へ。
グランジュ (ナイフを渡す)
プルウスト ありがたう。
グランジュ かうして本にしてみると、やつぱり、その序文はあつた方がいゝ。書き直して貰ふくらゐなら、止すつもりでゐたんだ。しかし、君が最後に手を入れたところは、その通りになほつてゐる筈だ。
プルウスト 君の剛情には全く弱るよ。今度ぐらゐ自分の書いたものに不安をもつたことはない。
グランジュ かうして、会つて話をしてからでも、まだ書き直したいか。
プルウスト …………(読みつゞける)
グランジュ 君の仲間にも偉い奴はゐるだらうが、元来、新仏蘭西評論《エヌ・エル・エフ》といふ雑誌は、君がゴンクウル賞を受けるまで、君の書くものを受け附けなかつたんだぜ。その理由は、君が社交界を題材にした小説しか書かないからといふのだ。そのことについて、我輩は「マタン」で、何時か手ひどくあの雑誌を攻撃してやつた。その時の、君の礼状みたいなものを、我輩はまだしまつてある。
プルウスト なるほど、こゝのところは、少しひどすぎたな。
グランジュ (のぞき込み)何処、え、何処…………。
プルウスト (ある個所を示し)言葉が足りないんだな。
グランジュ なに、かまわんさ。我輩は、この次の本で、その序文に対する返答を巻頭につけようと思つてゐる。今日、こゝで云つたやうなことを、みんな書くつもりだ。
プルウスト それはよした方がいゝ。
グランジュ いや、さうするよ。これは君の友情に酬いるたゞ一つの方法だ。君の立場を明かにして、君の周囲のものを安心させてやるよ。
プルウスト そんなことをする必要が何処にある。今、読み返してみて、多少云ひ足りないところはあると思ふが、全体を通じて、僕の考へは明白に出てゐる。取り消さなければならないところはない。
グランジュ それや、ほんとかい。
プルウスト ほんたうだ。
グランジュ よし。ありがたう…………。
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長い沈黙。
[#ここで字下げ終わり]
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グランジュ 君の健康も、だん/\恢復するやうだし、これからまた、どし/\傑作を書いてくれ。君が、サラ・ベルナアルの年まで生きられるんだと思ふと、我輩は実に愉快だ。そのうちに、アカデミイ・フランセユズで、君は、ジャック・リヴィエエルやアンドレ・ジイドと椅子を並べるだらう。ポオル・モオランも、その次ぐらゐにはひるかな。その頃は、ポオル・クロオデルが君たちの仲間に加つて、仏蘭西大統領に納まるだらう。さうすると、我輩の絵も、お蔭で、肖像博物館に陳列されて、――おや、これは、家にあるジャック・グランジュつていふ三文画家の絵みたいだ、なんて、臆面もなく立止つて見る見物人も出て来るわけだ。
プルウスト (ひそかに眉を寄せる)
グランジュ してみると、やつぱり、君の、あの志願兵の軍服姿を、一枚描いとくんだつたな。アツシリヤの王子みたいな奴をさ。
プルウスト (笑はうとしない)
グランジュ だが、我輩の絵は兎に角、モデルの選択については、大に自慢してもいゝことがあるんだぜ。
プルウスト それは、この序文に、僕が書いたことだ。
グランジュ あゝ、さう/\。――但し自分を除いてはと、君は書いた。それを除かれてたまるもんか。君の肖像を描いたのも、君のゴンクウル賞以前だ。ジイドにしろ、バレスにしろ…………。
プルウスト (やゝ荒々しく)もうわかつてる。
グランジュ 大家になつてからの肖像なら、誰でも描く。その最も甚しいのは、ヴェロニだ。君のところへはまだ来ないかい。
プルウスト …………。
グランジュ もうぢきやつて来るから、見てゐ給へ。(間)怒つたのかい、マルセル…………。
プルウスト …………。
グランジュ 我輩のお喋舌は、つまらんだらう。
プルウスト ……
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