序文
岸田國士
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)新仏蘭西評論《エヌ・エル・エフ》
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(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)カン※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]ァス
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)だん/\恢復する
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マルセル・プルウスト 四十六
アンリ・モルビエ 三十四
ジャック・グランジュ 五十二
看護婦 二十五
下男 四十
巴里――プルウストの病室
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プルウストは、寝台の上に半身を起し、看護婦に脈を取らせてゐる。
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モルビエ (黙つて、傍らの新仏蘭西評論《エヌ・エル・エフ》を取り上げ、バラバラと頁を繰る。看護婦が出て行くのを見送つた後)兎に角、この間の編輯会議でも、そのことはかなり問題になりました。みんな、その序文を早く見たいもんだつて云つてゐました。なにしろ、アナトオル・フランスが「ラ・ギヤルソンヌ」の序文を書いたのと、丸で訳が違ひますからね。
プルウスト …………。
モルビエ われわれの仲間は、ジャック・グランジュといふ男を、文人としてもですが、殊に、画家としてはまるで認めてはゐないんですからね。社交界に顔の売れた男としてなら、誰でも識つてゐます。なるほど、大家の肖像を可なり描いてゐるといふ話ですが、それだけで、芸術家の仲間入りは出来ませんからね。バレス、ハアディイ、ジイド、ジャム、それから、プルウスト…………。
プルウスト (眉を寄せる)
モルビエ 誰が、その肖像を真面目に批評しました。彼がさういふ得難い機会を捕へたといふのは、畢竟、彼が子供の時、偶然、ドガのモデルになつたといふ事実と同じです。おまけに、彼の小説といふやつをお読みになりましたか。「天使がなんとか」つて題の…………。僕も読んではゐませんが、愚劣なもんださうですね。
プルウスト (また顔をしかめる)
モルビエ (それにかまはず)今度出るつていふ「文字による肖像」ですか、内容は、断片的に知つてるんですが、彼にセザンヌの何処がわかるんです。ファンタン・ラトゥウルをどう見てるんです。
プルウスト 批評とは云へないさ。
モルビエ なほさうです。彼は、例の饒舌で、楽屋噺をして聴かせる。それが、彼の見栄です。あなたの序文を貰ひたかつたのも、その見栄の延長ですよ。あなたのやうな人から、モン・ナミ・ジャックとかなんとか云つて欲しいからなんです。
プルウスト さう呼んでもいゝんだから、しかたがない。
モルビエ 幼馴染としてゞすか。しかし、あなたの芸術的地位が、今は、もう、それを許しません。あなたの書かれたものは、一言一句、新時代に芸術的影響を及ぼすものと思つて下さらなければ困ります。あなたが、序文を引受けられたといふ話だけで、既に彼の才能は不当に高く評価されようとしてゐるんです。無論、一部での話ですが…………。
プルウスト それならいゝさ。
モルビエ 実は、この間も、その話を開いて、是非それだけは止めて貰はうなんて、こゝへ押しかけて来さうにした連中がゐました。僕が、今は面会謝絶で駄目だつて云ひますと、そんなら、電話で話さうといふわけです。電話をお引きにならないのが、とんだ役に立ちましたよ。
プルウスト (苦笑する)
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この時、下男がはひつて来る。
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下男 ムッシウ・ジャック・グランジュが、お見えになりました。
プルウスト モルビエ、君は、また話に来てくれ給へ。
モルビエ お大事に…………。なにか、社へお言伝はありませんか。
プルウスト 今、別にない。ジイドに、あんまり勉強するなつて云つてくれ給へ。
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モルビエ、去る。
下男が、ジャック・グランジュを案内して来る。
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グランジュ モン・シェエル・マルセル! 思つたほど窶れてもゐないね。
プルウスト 本が出来ましたね。
グランジュ (手にもつた新刊の自著を相手の手に渡し)これを見せたいのでやつて来たんだ。いろいろ、心配をかけて、どうも…………。
プルウスト (頁を切つてない本を、そのまゝ開いたり閉ぢたりしてみる)
グランジュ 珍しく誤植の多い本でね。君は誤植は嫌ひだらうな。
プルウスト …………。
グランジュ 実は、こいつを見せたくもあるのだが、その序文のことで、我輩、少し、云ひたいことが、こゝへ(胸をおさへ)つかへてるんだ。
プルウスト やつぱり気に入らないつていふのか。
グランジュ いや、いや、それどころぢやない。しばらくお喋舌をしてもいゝかい。
プルウスト いゝとも…………。
グランジュ 最初の手紙にも書いておいた通り、我輩が君に頼んだのは、たゞ、あのオオトイユ時代の思出を書いてもらひたいといふことだつたんだ。我輩の提灯持ちを頼んだ覚えはない。
プルウスト …………。
グランジュ 我輩が親爺にせがんで、あの菩提樹のあつた芝生へ、アトリエを建てさせた時代さ。君が、親爺の診察室から出て来るのをつかまへて、無理に、カン※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]ァスの前へ坐らせた、あの時代の、お互に今日あることを知らなかつた、あの時代の思ひ出を書いて欲しかつたんだ。
プルウスト それを書いたつもりだが…………。
グランジュ それも書いてくれた。しかし、君は、書かないでもいゝことまで書いた。我輩は、君が云つてくれるやうに、今日、名を成した画家かどうか? 君の友人たちは、ジャック・グランジュといふ画家を知つてゐるかね。少くとも、君たちの新仏蘭西評論《エヌ・エル・エフ》は、我輩にルノアールの印象を書けと註文はしたが、我輩の展覧会は、見事に黙殺してゐる。それは当り前のことだ。君が、この序文の中に書いてゐるやうに、我輩の描いた絵は、何処の家でも、一番暗い部屋の、一番目立たないところに掛けてある。それも、どうかすると、我輩を招待した日だけ、そこへ出したやうな掛け方をしてある。君は、それを、流行以外に目のない社交婦人の計ひに帰してゐるが、すぐその後で、我輩の絵は、今日一つの流行を作つたなどと、君に似合はないとぼけ方をしてゐる。君は、なぜさういふ事が云ひ度いのだ。
プルウスト …………。
グランジュ 我輩が、君に序文を求めたのは、云ふまでもなく、君のやうな傑物を、幼馴染にもつた光栄を、天下に誇りたいからだ。さうだ、それだ。君の文章で、ラルウスも忘れてゐるやうなヘツポコ絵かきが、一躍、巴里の画壇に重きをなさうなどゝ、露ほども考へてはをらんよ。我輩の年で、芸術家名鑑に一行の閲歴も載つてゐないやうな画家がほかにあるかね? 君が、この文章の中で、暗に苦心をしたところがよくわかる。何処を苦心したかと云へば、我輩を如何にして、「一人前の」芸術家として取扱はうかといふことだ。
プルウスト …………。
グランジュ いや、君からの手紙でも、その苦心は察しられた。君の周囲が、この序文問題で、どういふ風に動いたかといふことも、薄々知つてゐる。君には、非常な勇気が必要だつたのだ。我輩は、殆んど後悔したくらゐだ。だからこそ、君の再三の手紙に、我輩は再三答へたのだ――率直に書いてくれ。決して我輩に花を持たせる必要はない。…………待ち給へ。批評的でなくては書けないといふなら、何処をどう突いてくれてもいゝ。君が序文を引受けてくれたことだけで、君の友情は信じることができる。かう答へた。だが、君は、まさか、我輩が、その友情に縋つて、君から何ものかを求めようとしてゐたのだとは、考へてくれまいね。
プルウスト …………。
グランジュ 我輩が君のところへ押しかけない日は、君が我輩のところへやつて来た、あの頃から、もう三十年近くになる。その間にお互偶然に顔を合はせたことが、忘れもしない、たつた三度だ。同じ巴里に住んでゐてだよ。君が、ゴンクウル賞以来、我輩がニニイとの馴れ初め以来だ。その間に、ドレフュス事件がきつぱり二人を引裂いてしまつた。君は、その当時、いや、今でもかも知らんが、ドレフュス党であることを大変自慢にしてゐた。しかし、そんなことはどうでもいゝ。我輩は君の消息を、一から十まで知つてゐたのだ。君の家の夜会に、今度は誰々が呼ばれてゐるといふことや、君の「スワン」が、最近スカンヂナヴヤ語に訳されるといふことや、そんなことまで残らず知つてゐた。
プルウスト …………。
グランジュ そればかりではない。我輩は、到る所で、会ふ人毎に、君のことを喋舌り過ぎると思ふくらゐ喋舌つた。喋舌らずにはゐられないんだ。君の話をする時ほど、人が我輩の言葉に耳を傾けてくれる時はないんだ。そのためではない。そのためではないが、我輩は君の書くものは、全部、悉く読んでゐる。愛読…………そんなけちな読み方ぢやない。なあ、おい、マルセル、我輩は、血眼になつて読んだんだ。
プルウスト …………。
グランジュ あの筆で、いや、あの素晴らしい感覚で、あの頃の二人のことを書いて欲しかつたんだ。君の名前だけで、この本を飾るつもりはなかつたんだ。君が送つてくれた序文の原稿を受け取つて、我輩は、胸を躍らした。読みはじめると涙が出た。殊にあそこだ…………(本を取り上げて読む)
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すべて、見える世界から見えない世界へ還つたもの、すべて思ひ出に変つたもの、今はもう、跡形もないあかしで[#「あかしで」に傍点]の並樹が、われわれの心に、今もなほ影を落とす…………
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プルウスト 読むのはよしてくれ。
グランジュ どうしてだ。しかし、その先へ行くと、急に酔ひが覚めたやうな気がした。
プルウスト もういゝ。
グランジュ いや、我輩もそこは読みたくない。君は、真実であらうとして、気の毒なほど骨を折つてゐる。君は、誰にも気づかれぬやうに、我輩をやつゝけてゐる。――我輩の親爺が生きてゐたら、さぞ驚くだらう、息子のジャックが――その絵をみんな冗談扱ひにしてゐた息子のジャックが、今は、その当時のアカデミシヤン以上に偉くなつてゐるのだ――と、まあ、かういふ調子でやつゝけてゐる。
プルウスト (悲痛な面持で)ジャック!
グランジュ が、しかし、それはまあ、君の心尽しとして、公には、有りがたく思つてゐよう。ところで、もう一つ、君の誤解を解いておきたいことがある。それは、やつぱり、この序文の中で、君が婉曲に、我輩の態度を戒めてくれてゐる、そのことでだ。君は、サント・ブウヴの「月曜閑談」を例に取つて、彼が、その中で、モレ伯爵や、サンド夫人や、メリメその他を大作家の如く許してゐることが、後世、文学に疎く、十九世紀を知らない人々を如何に誤らせるかを説き、そのサント・ブウヴが、例へば、スタンダアルといふ変挺子な筆名を考へ出したベイルのことを、「あれや、小説家ぢやない」と云つたら、どうだと問うてゐるね。ところが、それは、サント・ブウヴが、メリメやサンド夫人と同じやうに、ベイルと一緒に飯を食つてゐる時の話だと云ふんだね。その筆法を、我輩がこの本の中で真似たと、君は考へてゐる。
プルウスト 真似たとは云はない。
グランジュ 学んだか、どつちでもいゝ。それから、かう附け加へてゐる。ジャック・グランジュは、好んで大芸術家の偉大ならざる半面を語つて自ら快しとする風がある。例へば、マネエの如き、この革命家が、勲章を欲しがり、サロンを目当てにのみ仕事をしてゐたと伝へるのは、甚だ怪しからんと云ふのだ。
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