……。
グランジュ  さうだらう。実際、それでなければ、三十年近く、訪ね合はないといふ理屈はないさ。しかし、お互、随分、いろんな意味で距りが出来てしまつたな。我輩は、つくづくさう思ふよ。君の住んでゐる世界は、もう、外からでなければ覘けなくなつてしまつた。それも、どうかすると、眩しくつて、よく見えないことがある。この間の手紙に、君は、我輩にだけは、なんでも云へると書いて寄越した。我輩もまた、君にだけは、何処を見られてもいゝやうな気がしてゐるんだ。君は、昔、人真似のうまい男だつた。教師の声色なんか、手に入つたものだつた。よく、それでみんなを笑はせたぢやないか。今、こゝで、ジャック・グランジュがジャック・グランジュの真似をしてゐるんだ。可笑しければ笑つてくれ。我輩は…………我輩は…………君の笑つた顔を見て帰りたい。その記憶を、最後の記憶として、大事にしまつて置きたいんだ…………(涙ぐむ)

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長い沈黙。
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プルウスト  (静かに)ジャック…………モン・シェエル・ジャック…………赦してくれ。僕は、今、ほかのことを考へてゐたんだ。いや、外のことではない。昔のジャックのことを考へてゐたんだ。あの頃、よく、頭髪《あたま》に花をさした美しい娘が、君のアトリエの前で馬車を止めさせて、君が絵を描くのを見てゐた。さも、君の描いてゐる絵が、よくわかるやうな顔をして見てゐた。その眼附には、しかし、ある不思議を感じる色が浮んでゐた。こんな立派な服装をした男の指から、しかも昨夜、食卓で、あんな面白い、あんな憎らしい話をした男の指から、どうしてこんな見事な絵が生れるのか、さういふ疑ひを、僕はその眼の中に読んだのだ。ジャック! このことを、僕は、この序文の中に書くのを忘れてゐた。さ、手を出し給へ。今日は、ひどく疲れたから、少し眠ることにする。案内はさせないから、いゝ時に帰り給へ。

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二人は、長い握手を交す。
プルウストが、横になつて眼をつぶるのを待ち、グランジュは、足音を立てないやうに部屋を出る。ベットの上にあつた例の書物が、パサリと床に落ちる。
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底本:「岸田國士全集5」岩波書店
   1991(平成3)年1月9日発行
底本の親本:「浅間山」白水社
   1932(昭和7)年4月20日発行
初出:「中央公論 第四十六年第二号」
   1931(昭和6)年2月1日発行
入力:kompass
校正:門田裕志
2008年3月19日作成
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