ネつたのだ。
この映画からもう一つ発見をしたことは、同じ舞台俳優でも、「正しい訓練」を受けたものと、「因襲的教育」を受けたものとでは、その映画俳優としての感覚に雲泥の差が生じるものだといふことである。即ち、前者は、例へばリイヌ・ノロの場合で、映画に於ける「舞台的演技」の領域をおのづから感得し、後者は、共演の某々に見る如く、映画に於て舞台的習癖を不用意に暴露してゐる。これは、寧ろ、「正しい演技」といふものは、映画にも舞台にも、本質的に共通するものであるといふ結論になるのかもしれぬ。このシナリオとこの監督の前に立つたリイヌ・ノロのジェルヴェエズは、決して映画的純粋さを演技の上で発揮し得たとは云へぬが、さうかといつて、その舞台的魅力なるものが必ずしも映画性の没却とならぬところ、わが国映画批評家の一考を煩はしたい点である。
その証拠に、僕は、逆の例をも挙げることができる。
先日、ある目的で、PCLの「さくら音頭」といふトオキイを「見学」したのであるが、それには、日本の新劇俳優中、最も名声ある数名の人々が登場し、それぞれ所謂「舞台的経験」を示してゐた。しかるに、それらの人々は、僕の意見では
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