A凡そぎごちない、重苦しい、凡そ「映画的」でない、従つて、魅力に乏しい演技を見せてゐるのである。
 が、これを以て、舞台的経験が発声映画にとつて無用であると早合点してはならぬ。実は、舞台経験にもよりけりであつて、これらの人々は、なるほど今日の新劇界では錚々たる俳優であるかもしれぬが、そもそも、今日の新劇が、悉く「正しい訓練」を欠き、従つて、その最高レヴェルを代表するといふそれらの俳優の演技なるものが、凡そ「舞台的」でもなんでもなく、言ひ換へれば、舞台の上でも、ぎごちなく、重苦しく、凡そ魅力に乏しいものなのである。殊に、白の不味《まづ》さ加減は、今日の新劇の致命的特徴であつて、それをわざわざ、エキスパアトとしてトオキイに採用した監督の了見が僕にはわからぬ。
 これならば、監督の頭次第で、づぶの素人を使つた方がよほどましだと、僕は信じてゐる。
 因に、この「さくら」映画で、一番気の毒な目に会つてゐるのは、ダイアロオグであることを附け加へておかう。(一九三四・四)



底本:「岸田國士全集22」岩波書店
   1990(平成2)年10月8日発行
底本の親本:「現代演劇論」白水社
   19
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