女優と劇作家
岸田國士

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【テキスト中に現れる記号について】

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(例)[#「おちやつぴい」に傍点]

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 劇作家が自分の恋人を其の作品の女主人公にすることは、極めて有り得べきことである。しかしまた、或る作品の女主人公に扮した女優が、その作品の作者と恋愛関係に陥ることも稀ではない。なほまた、劇作家が自分の恋する女優の為めに、彼女自身をモデルとして作品を物することも屡々あるに違ひない。
 此の場合、凡庸な作家とおちやつぴい[#「おちやつぴい」に傍点]女優との関係は固より問題とするに足らないが、少くともその一方が、才能ある劇作家、世に時めく女優である場合には、相当に興味もあり、話の種にもなるといふものである。殊に、恋愛関係の有無に拘はらず、劇作家は女優の才能によつて、女優はまた劇作家の天稟によつて、それぞれ芸術的霊感を与へられ、之が為めに輝やかしい前途を見出すといふやうなことは、誠に大慶至極な話である。
 例を日本に求めること、さほど困難ではないが、これは読者諸君がとつくに御承知のことゝ思ふから、こゝでは世界の女優国、仏蘭西に例を取つて、思ひ出すまゝを記して見る。

 仏蘭西の劇作家でも、モリエールほど浮名を流した劇作家はあるまい。彼は劇作家であると同時に俳優である。彼は四十歳の時に二十年来の情人にして一座の女優たるマドレエヌ・ベジャアルの娘、アルマンドと結婚した。それが問題になつた。然し、アルマンドが自分の血をわけた娘でないことぐらゐはモリエールも知つてゐたらう。此のアルマンド、一代の喜劇作者をしたゝか悩ました女である。
「わたしがいくら気をつけてゐても、彼女のわたしに対する冷やかな態度は増すばかりであつた。……彼女の心はわたしの心から離れて行つた。わたしは夫として不自然と思はれるほどの気兼ねをした。彼女の愛情に不満を感じるのは、彼女が機嫌の悪い時だ、と自分を慰めようともした。然し、わたしは誤つてゐた。その誤りを知るためには多くの方法があつた。わたしは平静を装つてゐることができなくなつた。彼女は、その頃、ギイシュ伯爵に夢中になつてゐたのだ。
 わたしはそれを知つた時に、自分を制御しようと努めた。が、それは不可能なことだ。わたしは、そのために、あらゆる精神的努力を傾倒し尽した。わたしは、あらゆる慰藉の手段を探し求めた。処が、わたしが教育した女が、少しの才能もなく、少しの美しさもなく、そして、その女が、わたしの人生観を根柢から覆したと思ふ時、わたしは悲嘆にくれた。それでも、彼女が、自分の潔白なことをわたしに告げた最初の言葉で、わたしは、わたしの疑ひが不合理であることを感じた。わたしは彼女に冤しを乞うた。
 然しながら、わたしの態度は、少しも彼女の心持を変へることはできなかつた。わたしは苦しい。わたしを憐れんで下さい。わたしの情熱は、彼女の利害に同情を持つほどまでに進んではゐた。なるほど、父として彼女を愛することはいゝことかも知れない。然し、わたしは、一つしか愛し方を知らないのだ。一つしか愛し方はないと思つてゐる。……」
 これは、当時、「評判の女優」といふ標題で発行されたパンフレツトの中に、モリエール自身の告白として掲載されたものである。その真偽はしばらく措き、モリエールは一生涯、浮気な妻の為めに、あらゆる苦痛と屈辱とを味つた。そして、この苦悶の中から、この惨澹たる生活の中から、傑作「人間嫌ひ」を生み、「妻を寝取られる妄想」を生み、「ジヨルジユ・ダンダン」を生んだのである。彼が美しい女優を妻にしなかつたら、仏国戯曲史から少くとも三つの名作が減つてゐたらう。

 モリエール一座に、シャンメエレといふ女優がゐた。その容姿について伝へるところは少いが、悲劇の女主人公として当代並ぶものなき名優であつたらしい。モリエールの許に出入する若い詩人のうちに、ジャン・ラシイヌがゐた。モリエールとシャンメエレとの関係は詳かでないが、ラシイヌは、シャンメエレに眼をつけた。悲劇作者として当然のことであるが、その当然さは、彼女をモリエール一座から奪ひ取つて、別の一座を組織させるに至つて甚だ当然でなくなつた。やがて悲劇「アンドロマアク」は、名女優シャンメエレの手によつて空前の成功を収め、ジャンをして一躍十七世紀に於ける大作家の名を成さしめた。モリエールはラシイヌと絶交した。ラシイヌとシャンメエレとの関係も長くは続かなかつたらしい。天才ラシイヌは、これまた稀代の恋愛師であつた。

 下つて十八世紀になる。ラシイヌの恋
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