愛悲劇に比すべき恋愛喜劇の名作家、ピエール・ド・マリヴォオは、その数多き作品の女主人公に、屡々シルヴィヤの名を与へてゐる。そのシルヴィヤの名こそ、当時伊太利座の花形女優ジォ※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]ンナ・ロザ・ベノッチの芸名である。彼は、その作品の女主人公に、常にその役を演ずる女優の名を、そのまゝ与へてゐるのである。執心のほど推して知るべしである。
彼女の「髪は黒く、眼は空色」であつた。
彼女は或る時、一無名作家の手になつた「愛の奇襲」の中で女主人公に扮したが、「どうしても人物の細かい気持ちを捉へることができない」ので、一度その作者に会つて見たいと思つた。彼女は当年二十二歳である。
マリヴォオはかくてシルヴィヤの友となつた。友以上にはならなかつたか。それは誰も知らない。サント・ブウヴは、早計にも「彼女は心の友を得た、然し、彼女には情人はなかつた」と断言してゐる。
マリヴォオは彼女の誕生日に讃歌を作つた。その中で、彼は「彼女のつれなさ」を恨んでゐることは事実である。これは「優しき謎」である。要するに、読者は、マリヴォオはシルヴィヤの為めに、シルヴィヤはマリヴォオの為めに、得がたき「芸術の鼓吹者」であつたことを知ればよい。それと同時に、マリヴォオの描く恋愛は、所謂マリヴォオ式の突いたり引いたり、短気な野郎には我慢の出来かねる場面の連続であることを知れば、一層面白いに相違ない。
十八世紀の始め頃、美貌と才能とを一身に集め、巴里の上下を沸き立たせた女優にアドリエンヌ・ルクウヴルウルがある。
当時二十五歳のヴォルテエル、早くも之に心を動かし、彼女の為めに平凡な悲劇「アルテミイズ」を書き卸した。そして、彼女を「わが憧るゝ天使」と呼びかけた。如何に頭が良くてもまだ白面の一書生、その憧るゝ天使の後ろに、広大なる領地と数万の軍兵とを擁するサツクス公爵がついてゐることは知る由もなかつた。
時は過ぎる。ヴォルテエルの頭には白髪が見え出した。彼は丹念に悲劇を書き続けた。 平凡な悲劇を書き続けた。博学多芸、古今の才物も、詩の女神と舞台の花には縁が薄かつたらしい。それでも、彼は、五十五だ。その頃国立劇場の星座に輝くクレエロン嬢に胸を焦がしてゐた。
「わたしの可愛いクレエロン、どうか二日でも三日でも、わたしの為めに生きることを承知して下さい。わたしの命は、残つてゐる命は、悉くあなたの為めに捧げます」と書き送つた。
返事? さあ、それは見たものがない。
ヴィクトオル・ユゴオは厳めしい小父さんである。女優風情に眼はくれない。時の名女優マルス嬢は同時に国立劇場の暴君であつた。彼女はその生涯を通じて、「愛せられる以上に愛した」と伝へられてゐる。第一負け嫌ひである。自分より美しいと思ふもの、自分の名声を少しでも外らすやうなものは、用捨なく排斥した。
ユゴオは、その作「アンジェロ」の上演に当つて、他の劇場からドルヴァル夫人といふ女優を選んで、マルス嬢の相手役を演らせることにした。此の女優、ユゴオの眼にとまつただけあつて、なかなかの才女である。
稽古中の或日、ユゴオの注意が動もすれば多くドルヴァル夫人の方に払はれるのを見て、マルスは黙つてはゐられない。
「先生、如何です、町の小屋に出る女優がお気に召しましたか」
「いや、申し分ありませんな。気だてはよし、淑やかではあり、才能も十分あり……」
その次の稽古日に、また同じ問を受けたユゴオは、とうとう勘癪玉を破裂させた。
「申し分がないどころぢやありません。一つあなたの役をドルヴァル夫人に演つて貰つて、先生の役をあなたにやつて頂かうかと思つてゐる位です」
すると、マルス嬢も負けてゐない。
「へえ、それで、あたしが承知すると思つていらつしやるんですか」かう云つたまゝ、ぷいと出て行つてしまつた。
十九世紀の初めに、これも男勝りの女優として知られたブウルグワン嬢は、また同時に、同じ批評家から褒められたり貶されたりすることで有名であつた。
中にも、当時の勢力ある批評家ジェッフルワは、最初口を極めて、若く美しい彼女の才能を賞揚してゐたが、どうした機会か、急に酷い批評を浴せかけるやうになつた。彼女は、堂々とその理由を発表して、「あたしがあの人の云ふまゝにならなかつたから」だと宣言した。
是れを見て、ジェッフルワは苦笑しながら傍らのものに呟いた。
「おれは男とは寝ないよ」
アルフレッド・ド・ヴィニイの傑作「チャッタアトン」を演じて非凡の才能を示した女優マリイ・ドルヴァルは、俳優であつた最初の夫に死に別れて、メルルといふ若い劇作家と結婚した。メルルは前途の光明を見つめつゝ、不治の病に罹つて起つことが出来なくなつた。
彼女の半生は病める夫への美しい犠牲であつた。
彼女は、前に述べたマル
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