はす……。といふ風に演劇は「進行」するのだが、その「進行」に、今云つたやうな「期待」をもつことは、已むを得ないといふだけで、「演劇的」には、重大なことではない。さういふ「期待」を忘れて、瞬間瞬間の「影と動き」に注意を惹きつけられるやうに、見物は訓練されなければならぬ。それは丁度、音楽の演奏を聴く時の態度である。この次はどんな「音」が出るかといふことばかり「期待」してゐる音楽の聴手は、結局、音楽を味ふ資格がないのと同様である。演劇に携はるものは、この覚悟がなくてはならぬ。「まあ、待て、この先が面白くなるのだ」といふ心持が、諸君にありはせぬか。いつまでたつても新劇が進歩しない原因は、これでほぼわかつたらう。
 私は、可なり、「純粋演劇」の立場から説明をしすぎたやうだ。この文章を綴る動機がそこにあつたわけだが、これは決して、「芝居を面白くなくする」目的で云つたのではない。とかく、「純粋」などといふ言葉はさう聞え易いが、少くとも「演劇」にあつては、「純粋なもの」を見せる努力が一層芝居を「面白くする」最大要件であることを私は断言して憚らない。(一九三三・二)



底本:「岸田國士全集22」岩波
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