る。ただ、私の朧ろげに掴み得た「純粋戯曲」といふものは、恐らく、既成観念による文学としては通用し難いもので、これこそ、一連の「声と動作の符牒」にすぎないものである。そんなものを活字として発表することは、今日では無意味のやうに思はれる。それなら、舞台を通して見せるとなると、これを効果的に演出するためには、目下、適当な俳優が見当らない。今日の新劇の如く、辛うじて舞台から文学を感じて満足するなどといふわけには行かぬからである。
だが、これは多分、私の空想に終るだらう。そこへ行くまでに、まだ、どれだけ廻り路をしなければならぬか、それさへ見当がつかぬ。「純粋戯曲」とは、結局、戯曲文学の頂点に築かれてこそ意味があるのであらうが、ただ、わが国に於ける戯曲壇、乃至劇界の現状に照し、戯曲家も、俳優も、演出家も、それぞれの領域のうちで、手も足も出なくなつてゐる場合、ただ、「佳い仕事」をするといふだけの目標では、なんとなく頼りない気がするかもしれぬので、私は、この原因が、わが新劇運動の第一歩に於て作られてゐる事実を指摘し、更めて正しいコースを与へるため、敢て、「純粋演劇」の問題を持ち出した次第である。
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