云ひ、共に、その形式が、そのまま、将来、「純粋演劇」の一形式として採用せられるとは考へられない。あの形式を生んだ時代は、再び来ないと同様、今後「純粋演劇」の運動が起るとしても、能楽や歌舞伎劇に、直接暗示を得るなどといふ時代錯誤が行はれたら、それこそ滑稽である。外国人には、さういふところがわからないので、珍らしいものが新しいのは当然であるが、珍らしくないものに新しい生命を見出すことは、それ以上の深い根拠がなければならない。
 要するに、「純粋演劇」の見本なるものは、将来、無数に示されるものと予想して、さて、これに伴つて、「純粋戯曲」なるものが現はれて来るであらうといふことも考へられる。或は、この方が、先に現はれるのではないかとも思ふが、それはそれとして、私は差し当り、自分の仕事として、これに向ふ一つの道を開拓することに興味を感じてゐる。
 私のこれまで発表した貧しい作品が、殆んどすべて、その方向を見極めるための、右往左往であつたとも云へるのである。そしてそのことを、私は嘗て、「何かを云ふために戯曲を書くのでなく、戯曲を書くために何かしらを云ふのだ」と公言し、いくらかの誤解を招いたと記憶す
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